我々の生活その物であるから。

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 生活は季節を択ばずに発芽と開花と結実とを続けて行く。新しいことは真の生活の相《すがた》である。既に生活が不断に移って行く以上、私たちの倫理観もまた不断に移らねばならない。永久の真理というものを求めることの愚は琴柱《ことじ》に膠《にかわ》するにひとしい。永久の真理というような幽霊に信頼して一方のみを凝視している人が、刻々に推移する人生に対して理解もなく判断も出来ず、自分が人生の本流に乗ることを忘れ時代の競走に落伍していながら、かえって反感と否定とを以て世の澆季《ぎょうき》を罵《ののし》ったりもするのである。

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 永久の真理のないと共に万人に共通する真理もないと私は想う。時間と空間を通じて固定した真理を求めることが実際の人生と相容れぬという不都合のあることに気が附かなかったために、過去の世界が煩悶《はんもん》と懐疑と沮喪《そそう》とに満たされ、在来の哲学と宗教と道徳とが現代に権威を失うに到ったのではないか。例えば「二夫に見《まみ》ゆべからず」という客観的の倫理を建ててこれを婦人の生命――生活の中枢――とすることを強《し》いたのが従来の貞操倫理である。何故《なにゆえ》に二夫に見《まみ》えてならないかという説明を附せず、無条件にこの倫理に従わしめようとした点において、先ずこの倫理は人間の意志を無視することの残虐を敢《あえ》てしている。

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 貞操倫理は愛情と性欲とにわたる問題である。詳しくいえば個人の体質と、天分と、教育と、境遇と、霊性と、性欲と、好悪と、年齢とに関係する問題である。そしてそれらの者が人に由って異っている以上、億兆の人の生活を一片の既定した貞操倫理で律することの出来ないのは明白である。或女は一夫に見《まみ》えることすら自己の清浄を破るものとして全く結婚を嫌っているかも知れぬ。或女は愛情と性欲の自発がないために全く結婚を望んでいないかも知れぬ。或女は既に結婚していてもその結婚に種々の理由から満足していないかも知れぬ。或女は一人の異性を愛するだけでそれ以外の要求を持っていないかも知れぬ。或女は一人の男性を愛し合うこと以外の性交は自己の生活の中枢である愛情を濁す行為とし、貞操を自己の愛情の象徴として厳粛に擁護しようとするかも知れぬ。――私自身の貞操観が現にそれである――また
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