夢を見ていることが出来ます。労働者が資本家の存在を認めて、賃銀さえ要求通りに支払わるれば、その下風に立って各自の労働力を商品の如くに売買することを辞しないという奴隷的精神が明確に維持されているからです。
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私の考察では、階級闘争という意義は、労働者が全く資本家の支配から解放されて、平等なる人格者として対抗し、これまで資本家が利潤として独占していた剰余価値を――むしろ労働者から掠奪《りゃくだつ》していた剰余価値を――労働者にも公平に分配されることを要求する行動に対して、資本家がこれを拒否することでなくてはなりません。即ち労働者の要求する所が、既定の賃銀の幾割の値上げという類のものではなくて、労働者自身の刻苦の成果である生産価値の余剰、即ち営利事業の利潤の幾割を労働者にも分配せよ、もしくはその利潤の全部を労働者に返還せよという類の要求にまで進まなければ、資本家を向うへ廻しての争闘とはいわれないと思います。
今日の資本家が利潤において五割七割という配当を行っているのに、労働者が利潤の方面には手を着けず、全く無関心に放任して置いて、その賃銀ばかりの値上を迫っているのは、資本家と対等な人格的独立者としての権利的要求でなくて、徹頭徹尾資本家の隷属として社会的低位にある人間の哀訴的要求であると思います。
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私はこの物価の暴騰時代に、労働者が目前の窮乏を補足する必要から、賃銀の値上を要求することは正当過ぎる要求として勿論同感しますが、しかしこれが前述のように階級闘争の意義に遠いものである所から、この事が少しも無産階級全体の幸福とはならない事を遺憾に思います。賃銀の値上は、その要求に成功したる少数の工場労働者だけに目前の窮乏を救うだけのものです。のみならず、値上げしたる賃銀は資本家の利潤から支払われるものでなくて、資本家はきっとそれだけの増収を製品の価格を値上げすることに由って計ろうとします。例えば活版職工の賃銀の増加はてきめん印刷物の定価の引上を見ずに置きません。そうすれば、資本家と、及びその資本家と賃銀において妥協した少数の労働者とが協力して、製品の価格を不法に吊上《つりあ》げ、大多数の消費者たる無産階級を層一層物価の暴騰《ぼうとう》に由って苦《くるし》める結果を生じます。
例えば私たちのような文筆の職業に就いている者は単独的労働者
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