遺書
與謝野晶子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)見て下さる方《かた》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)した程|憎《にく》み

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「た」は底本では脱落]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)足がふら/\して
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一

 私にあなたがしてお置きになる遺言と云ふものも、私のします其《そ》れも、権威のあるものでないことは一緒だらうと思ひます。ですからこれは覚書です。子供の面倒を見て下さる方《かた》にと思ふのですが、今の処《ところ》私の生きて居る限りではあなたを対象として書くより仕方がありません。私は前にも一度こんなものを書きました。もうあれから八年になります。花樹《はなき》と瑞樹《みづき》の二人が一緒に生れて来る前の私が、身体《からだ》の苦しさ、心細さの日々《にち/\》に募るばかりの時で、あれを書かなければならなくなつたのだと覚えて居ます。十二月の二十五日の午後から書き初めたのでした。今朝《けさ》は耶蘇降誕祭《クリスマス》の贈物《おくりもの》で光《ひかる》と茂《しげる》の二人を喜ばせて、私等二人も楽しい顔をして居たと確か初めには書いたと思つて居ます。その時のも覚書以上の物ではありませんし、唯《たヾ》今と同じやうにあなたの見て下さるのに骨の折れないやうにと雑記帳へ書くこともしたのでしたが、今よりは余程瞑想的な頭が土台になつて居ました。あなたの次《つい》で結婚をおしになる女性に就いていろ/\なことを書いてありました。数人の名を挙《あげ》て批判を下したり、私の希望を述べたりしたのでした。思へば思ふ程滑稽な瞑想者でした、私は。瞑想は下らないものとして、あなたに僭上《せんじやう》を云つたものとして、併《しか》しながらあの時にA子さんやH子さんのことをあなたの相手として考へたやうに、今も四人や五人はそんな人のあつた方《はう》が、この覚書を読んで下さる時のあなたを目に描《か》いて見る私にも幸福であるやうに思はれます。あの方《かた》よりさう云ふ人を今のあなたは持つておいでにならない、あの方《かた》は私が見たこともなし、委細《くは》しい御様子も聞いたことはありませんけれど、近年になりまして私が死んだ跡《あと》のあなたはどうしてもあの方《かた》の物にならなければならない、私の子を世話して下さる人はあの方《かた》よりないと云ふことがはつきりと、余りにはつきりと私に思はれて来ました。自分の死後の日を見廻す中にも、私は傷《いた》ましくてその絵の掛つた方《はう》は凝視することが出来ません。私は冷く静かな心になつて居ると思つて居ながら、あなたの苦痛のためにはこれ程の悲しみを感じるのかと自《みづか》ら呆れます。あの方《かた》はあなたの初恋の方《かた》で、然《しかtも何年か御一緒にお暮しになつた方《かた》で、あなたのためにその後《のち》の十七八年を今日《けふ》まで独居しておいでになる方《かた》であつても、悲しいことにはあなたよりもつとお年上なのでせう。去年あの方《かた》のお国から出ておいでになつた岩城《いはき》さんが、私等夫婦をもすこし開《あ》け広げな間柄であらうとお思ひになつて、あの方《かた》のことをいろ/\とお話しになつた時に、年は自分よりも確か二つ三つ上だと云つておいでになりました。岩城《いはき》さんはあなたよりまた二つ三つ上なのでせう、であつて見ればあの方《かた》の髪にはもう白い毛が出来て居るでせう、お目の下の皮膚から紫色になつた血が透《す》いて見えるでせう。真実《ほんたう》にあなたはお可哀相《かあいさう》です。お可哀相《かあいさう》です。あの方《かた》のことをあなたが私へお話しになつたことは唯《たヾ》一度しかありません。結婚して一月《ひとつき》も経たない時分でした。つまりお互《たがひ》に自己の利益などは考へ合はなかつた時だつたのです。ですからあなたは虚心平気でいらつしつた。昔の恋人のためにしみじみとお話しなさいました。けれどその晩を私は一睡もようしないで明《あか》したことを覚えて居ます。

     二

 あの××県のあなたの兄様《にいさん》の拵《こしら》へておいでになる女学校を、神童時代の次の十八九のあなたが教えておいでになる時、其処《そこ》の舎監で、軍人の未亡人の切下げ髪の人とかが、毎夜毎夜提灯を点《とも》して遠いあなたの住居《すまゐ》を訪ねて来て、あなたを挑《いど》まうとしながら表面《うはべ》では学校のあの二人の才媛の何方《どちら》をあなたは未来の妻にしたいと思ふかなどと云ふ話ばかりをして居たと云ふこと、あなたは第一の才媛は容貌《きりやう》が悪いから厭だ、あの人ならとあの方《かた》のことをお云ひになつたのだと云ふこと、京の北山《きたやま》の林の中へ鉄砲を持つて入《はひ》つて、あの方《かた》と添はれない悲しみに死なうとなすつたこと、それから五六年もしてあなたとあの方《かた》が一緒になつて、女の赤さんを生んで、そしてその子が死んでからお別れになつた時、あの方《かた》は大きい柳行李《やなぎがうり》に充満《いつぱい》あつたあなたの文《ふみ》がらをあなたの先生の処《ところ》へ持つて行つて焼いたと云ふこと、こんなことでした。私が何故《なぜ》別れるやうになつたのでせうと云ひましたら、赤坊《あかんぼう》の死んだのが悪かつたのだとあなたは云つておいでになりました。年上の女と恋をするのはどんな気持なものかとも私がお尋ねしましたら、綺麗な人だつたせいか自分は年上とも思はなかつたとあなたは訳《わけ》なしに云つておいででした。よくあなたや私の知つた人が、年上の女を娶《めと》つたり、年下の男の処《ところ》へ行つたりするのを見て何故《なぜ》ああした気になれるだらうとあなたはよく不思議がつておいでになりました。私は何時《いつ》も昔のあなたがお思ひになつたやうに年《とし》と云ふものの目に映つて来ない幸福な気《き》に包まれた人達なのであらうと、さう云ふ人達に対しては思つて居るだけなのです。あの方《かた》が何年間かのあなたの心を蓄《たくは》へた行李《かうり》を開《あ》けて人に見せ、焼き尽しもした程|憎《にく》みを見せながらそのあなたの弟や妹に、実姉妹のやうな交際を猶《なほ》続けて来て居ることは三四年前まで私は知りませんでした。あなたは私よりもつと後《あと》までお知りにならなかつたかも知れません。知つておいでになつたかも知れない。或《あるひ》はまた西洋においでになる時にも門司《もじ》でお逢ひになつた妹さんの口から何事もあなたへ伝へられなかつたか熬mれません。私はお艶《つや》さんとあなたのお留守に一月《ひとつき》程一緒に居ました時、お艶《つや》さんは私を苦《くるし》めたいのでもなく、何《なに》の気なしによくあの方《かた》のことを賞《ほ》めてお聞かせになりました。烈《はげ》しいヒステリイの起つてゐる時などは、悲しい程にさうでした。あなたの兄上や嫂《あによめ》の君の信用の最も厚い婦人と云ふのはあの方《かた》であるとも聞きました。私が幾人も残して行《ゆ》く子供を育てヽ下さるであらうと依頼心をあの方《かた》に起《おこ》すやうになつたのもお艶《つや》さんの言葉が因《いん》になつて居るのです。岩城《いはき》さんが某氏の後添《のちぞひ》にあの方《かた》を世話しやうかと思ふと云つておいでになつた時に、私は滑稽なことを云ふ人であると思つて笑つたのでしたが、あの時はあなたも傍《そば》においでになつて、私がさも心から嬉しげに笑つたとはお思ひにならなかつたでせうか、私はあなたのその時の顔をよう見ませんでしたけれど。
 私は子供のことばかりを書いて置かうと思つたのでしたが、前に書いた遺書のことから云はないでもいいことを書きました。

     三

 私が今日《けふ》またこんな物を書いて置かうと思ひましたのは、花樹《はなき》と瑞樹《みづき》が学校へ草紙代や筆代で四十六銭づヽ持つて行《ゆ》かねばならないと云ひまして、前日先生のお云ひになつたことを書いて来た物を持つて来て見せました時、私が居なくてこの子等がこんな物を見せる人がなかつたならと、ふとそんな気がしまして、そんな事などをお頼みする物を書かうと思つたのでした。私は今また遺書ではありませんが、四五年前に死を予想して書いた物のあつたことをふと思ひ出しました。それは私が亡霊になつて家《うち》へ来ることにして書いたものでした。
 東紅梅町《ひがしこうばいちやう》のあの家は書斎も客室《きやくま》も二階にあつたのでした。階下《した》に二室《ふたま》続いてあつた六畳に分《わか》れて親子は寝て居ました。亡霊の私が出掛けて行《ゆ》くのは無論|夜《よる》の夜中《よなか》なのです。ニコライのドオムに面した方《はう》の窓から私は家の中へ入《はひ》ると云ふのでした。私は何時《いつ》も源氏の講義をした座敷の壁の前に立つて居ました。青玉《せいぎよく》のやうな光が私の身体《からだ》から出て、水の中の物がだんだんと目に見えて来ると云ふ風に其処等《そこら》がはつきりとして来ると云ふやうなことは、私が書かうと思つたことではありません。私はやつぱり電気灯のスイツチを廻して座敷の真中《まんなか》へ灯《ひ》を点《つ》けました。室《へや》の中は隅々まで綺麗になつて居ました。私は昼間|階下《した》の暗いのに飽《あ》いて二階へ上《あが》つて来て居る子供等が、紙片《かみきれ》や玩具《おもちや》の欠片《かけら》一つを落してあつても、
「この穢《きたな》いのが目に着かんか。」
 とお睨《にら》み廻しになるあなたの顔が目に見えて身慄《みぶる》ひをすると云ふのです。または自身達の散《ちら》して置いた塵《ちり》でなくても、
「この埃《ほこり》が目に見えないのか。」
 と子供等は云はれたであらう、梯子|上《のぼ》りにだんだん怒《いか》りが大きくなつて来るあなたは、終《しま》ひには縮緬《ちりめん》の着物を着た人形でも、銀の喇叭《らつぱ》でも、筆の莢《さや》を折るやうにへし折つて縁側から路次へ捨てヽおしまひになるやうなこともあつたに違ひないと思ふと云ふのでした。床の間は何時《いつ》来て見ても私の生きて居た日に少しの違ひもない品々の並べやうがしてあると云ふのです。唯《た》だ私の詩集が八冊程|花瓶《はながめ》の前へ二つに分けて積まれてあるのだけは近頃からのことであると思ふと云ふのです。本の彼方此方《あちこち》には白い紙が栞《しおり》のやうにして挟《はさ》んであると云ふのです。本の上には京の茅野《ちの》さんの手紙が置いてあるのです。私は全集に就いてして呉れた茅野《ちの》さんの親切な注意をよく読んで見たいと思ひながら遅くなるからと思つてそれは廃《や》めると云ふのです。また私は詩集の中がどんな風に整理されてあるのか見たいとも思ふのですが、自分がどうすることも出来ないのであるから仕方がないと諦めます。併《しか》しさう思つてしまへば、子供を見るためにかうして時々この家へ来ると云ふことも同じ無駄なことであらうと苦笑するのです。私の作物《さくぶつ》には生んだ親である自分にも勝《まさ》つた愛を掛けて呉れる人達が少《すくな》くも幾人かはある。私の分身の子には厳しい父親だけよりない、さうであるからなどヽ恥《はづか》しい気もありながら思ふのです。最初には気が附かなかつたのですが、柳箱《やなぎばこ》の上に私の写真が一枚置いてあるのです。何処《どこ》かの雑誌社から返しに来たのであらうと思ふと云ふのです。

     四

 今日《けふ》はもう書斎へは入《はひ》つて見ないで置かうと私は思ふのです。死ぬ少し前まで一日のうちの八時間は其処《そこ》で過《すご》して、悲しいことも嬉しいことも其処《そこ》に居る時の私が最も多く感じた処《ところ》なんですから、自身の使つて居た机が新刊雑誌の台になつたりして居る変り果てた光景は見たくないからなので
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