とも》すと、白つぽくなつた壁際《かべぎは》の二段の吊棚が目の前へ現はれて来るのです。私は洋杯《こつぷ》の中に入《はひ》つた三郎の使ひ残した護謨《ごむ》の乳首《ちヽくび》に先《ま》づ目が附きます。丁度二時頃の今時分に毎夜|此処《ここ》へ牛乳《ちヽ》を取りに来た、自身でそれをしに来られなくなつた頃から私はもう死を覚期《かくご》したなどヽ思ひ出すのです。埃《ほこり》の溜つた棚の向うの隅には懐中鏡が立てヽあるのです。洗粉《あらひこ》のはみ出した袋なども私は苦々《にが/\》しく思つて眺めるのです。併《しか》し私が居たからと云つても、心でくさくさと思ふだけで、表に現れる処《ところ》では有つても無くても同じ程な寛容な主婦なのであると思ふのです。女中に対する寛容は私の美徳でも何でもなかつた[#「た」は底本では脱落]のである、私は我身を惜んで、一日《いちにち》でも二日《ふつか》でも女中の居なくなつて下等な労働をさせられてはならないと思ふ心を離さなかつたからであるなどとも思ふのです。私はふと水口《みづくち》の土間に泥の附いた長靴があるのを見るのです。誰《たれ》のであらう、もとよりあなたのではない、書斎も玄
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