ます。この書物《かきもの》が不用になつて、また何年かの後《のち》に更に覚書を作るのであつたなら、この感は一層深いであらうと思ひます。私はもうその時分になつてはこんな物を長々と書くまいとも思ひ、一層書くことが多いであらうとも思はれます。私は併《しか》しながら話を聞くだけでも眩暈《めまひ》のしさうな光《ひかる》達の祖父の方《かた》がなすつたと云ふ子女の厳しい教育に比べて、煙管《きせる》の雁首《がんくび》でお撲《う》ちになつた傷痕《きずあと》が幾十と数へられぬ程あなた方《がた》御兄弟の頭に残つて居ると云ふやうなことに比べて、寛容をお誇りになるあなたであつても、生きた光《ひかる》達をお託しすることの不安さは何にも譬《たと》へられない程に思つて居るのです。あなたのお飼ひになる小鳥の籠を覆《くつがへ》すやうなことがあつても私の子は親の家を逐《お》はれるでせう。あなたが仏蘭西《フランス》からお持ち帰りになつた陶器の一つに傷を附けた時、私の子は旧《もと》に戻せと云ふことを幾百|度《たび》あなたから求められたでせう。私は此処《ここ》まで書いて来まして非常に気が昂《あが》つて来ました。母を持たない我子は孤児になる方《はう》がましなのではなからうかと思ひます。先刻《さつき》御一緒に飲んだココアのせいなのでせうか。私には隣国の某|太后《たいこう》が養子の帝王に下した最後の手段を幻影に見て居ます。けれど私はそれを決して実行致しません。もとよりこの覚書を見て頂かうと思つて居ます。殊《こと》に私は白髪《しらが》を掻き垂れて登場して来ようとするあなたの初恋の女のために、あなたと一緒に葬られやうとしたと思はれては厭ですから。
 妙な調子になつて来ました。

     九

 私は光《ひかる》のためにあのことも書いて置きませう。これは一昨年《をとヽし》の歳暮《せいぼ》のことでした。ある日の午後学校から帰りました茂《しげる》が護謨《ごむ》鞠《まり》を欲《ほ》しいと頼むものですから、私は光《ひかる》に買つて来て遣ることを命じたのでした。簡単な買物として私は光《ひかる》の経験にとも思つて出したのでした。清《きよし》さんの家《うち》の譲《ゆづる》さんにも頼んで一緒に行つて貰つたのです。麹町の通りで購《あがな》はれた鞠《まり》は直《す》ぐ茂《しげる》の手へ渡されたのです。茂《しげる》は嬉しさに元園町《もとぞのちやう》の辺りでは鞠《まり》を上へ放り上げながら歩いて居たのです。どうした拍子にか鞠《まり》はあの阪《さか》の中途にある米何《こめなに》とか云ふ邸《やしき》の門の中へ落ちたのださうです。光《ひかる》自身の物であればあの恥《はづか》しがる子がどうして知らない家へ拾ひに入《はひ》りませう、また貧しいと云つても自分の親には十や二十の鞠《まり》を買ふだけの力はあると信じて居ますから、もう一度帰つてから麹町の通《とほり》まで行《ゆ》けばいいと諦めた丈《だけ》で帰るのだつたのです。今の今迄|悦《よろこ》んで居た弟の淋しい泣顔を見てはじつとして居られないやうな気がしたのでせう、然《しか》もまだ二人だけであつたなら手を取り合つて帰つて来たかも知れませんが、従弟《いとこ》の心も自分と同じやうに茂《しげる》のために傷《いた》められて居るのであらうと見ては、一番年上の自分が勇気を出して見なければならないと思つたのでせう、光《ひかる》はその米何《こめなに》の門を五六歩|入《はひ》つて行つたのださうです。それだけで十一年の間|玉《たま》のやうに私の思つて来た子は無名の富豪の僕《ぼく》に罵られたのです。辱《はづかし》められたのです。光《ひかる》は多くを云ひませんし、私も尋ねないでそれで済んだのですが、私の心は長い間その事から離れませんでした。僕《ぼく》を老人として赤ら顔の酒臭い男を思つて見たり、若くて背中の曲がつた男かと思つて見たり、車夫《しやふ》姿をした男かと思つて見たり、我子を罵つた言葉は越後訛か、奥州訛かと考へて見たり、門内の物は塵一本でも自家の所有物であると、ねちねちと物を言ふ半商人、半書生が憎まれたりもしました。人の子を瓦の片《はし》のやうに思つて居るそんな人間を養つて置く広い邸《やしき》や無用な塀の多いXを私は我子を置いて死に得《う》る処《ところ》とはよう思ひません。ウイインの王宮の庭は平民達の通路になつて居るではありませんか。であるからヨセフ老帝は薄命だと云はれるのである、自身の居る窓の下に旅人の煙草《たばこ》の吸殻を捨てさせるなどとは憐むべきである、絶東《ぜつとう》の米何《こめなに》だけの威《ゐ》をもよう張らないのであると米何《こめなに》は思つて居るかも知れません。私は米何《こめなに》を無名の人と書きましたが、あの海軍の収賄問題のやかましい頃に贈賄者として検挙される筈《はず》であ
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