『新新訳源氏物語』あとがき
与謝野晶子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)燦然《さんぜん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)最愛の夫人|紫《むらさき》の上
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燦然《さんぜん》と千古《せんこ》に光る東洋文学の巨篇《きょへん》源氏物語の価値は今さら説く必要もない。
私は今を去る二十八年の昔、金尾文淵堂主の依頼によって、源氏物語を略述《りゃくじゅつ》した。新訳源氏物語がそれである。森林太郎《もりりんたろう》、上田敏《うえだびん》二博士の序文と、中沢弘光《なかざわひろみつ》画伯の絵が添っていた。その三先生に対して粗雑な解と訳文をした罪を爾来《じらい》二十幾年の間私は恥じつづけて来た。いつかは三先輩に対する謝意に代えて完全なものに書き変えたいと願っていたのであるが実現は困難であった。今から七年前の秋、どんなにもして時を作り、源氏を改訳する責《せ》めを果そうと急に思い立つ期《とき》が来た。そしてすぐに書きはじめ書きつづけ、少い余命の終らぬ間を急いだ。ところが昭和十年の春に私は良人を失った。一家を負ってなさねばならぬ用のふえたことは申すまでもない。また一方くずおれた心は歌を作る以外に力の出しようもないように思われた。その時までにできていたのは良人がすでに病床についていた頃にも書いた橋姫《はしひめ》の巻までであった。若菜《わかな》以後は清書もできていなかった。私は壁際に山積した新新訳の原稿を眺《なが》めるだけで二年をいたずらに過した。以前に大阪へ店を移された文淵堂主と京都で会したのはその頃であった。氏は初期の私の歌集以来引きつづいて私を庇護《ひご》してくれた人である。東京でまた店を開きたいという話を聞いて、私のできている新新訳『源氏物語』の話をし、そんなことが機縁《きえん》になって東京で氏の再起がかなえばよいと相談した。氏は喜んでくれた。そのために氏の信仰の深い観音へ礼参りさえもされた。二十八年の昔に拙《つたな》いものを書いて渡した私の成長を疑わなかったのである。いよいよ本が出るようになって私は滅罪《めつざい》の方法の許された神仏に合掌《がっしょう》した。
私は源氏物語を前後二人の作者の手になったものと認めているが、その研究をここでこま
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