た紫式部の筆には及ばぬがということで、注釈者たちが紫の上のことにしているのは曲解《きょっかい》なのである。子孫のない紫の上と別の家のこととを比較するのはおかしいではないか。
 私はその研究を以前していたとき、前篇の執筆と後篇の書かれた間の差に二十六年という数を得た。王朝はすでに地方官が武力を用いて威《い》を拡《ひろ》めはじめた時代になっていた。陸奥守《むつのかみ》から常陸介《ひたちのすけ》になった男の富などがそれである。
 後冷泉《ごれいぜい》天皇の御勅筆《ごちょくひつ》の額《がく》を今も平等院《びょうどういん》の隣の寺で拝見することができるが、その頃の男の漢文の日記などに東宮時代の同帝がしばしば宇治の頼通《よりみち》の山荘へ行啓《ぎょうけい》になったことが書かれてある。後冷泉帝の御乳母《おんめのと》が大弐の三位で、お供をして行って宇治をよく知るようになったものらしい。
 歌は前篇の作者にくらべて劣るが凡手《ぼんしゅ》でない、その時代に歌人として頭角《とうかく》を現わしていた人の筆になった傑作小説として、私は大弐の三位の家の集をずいぶん捜し求めたが現存していない。伊勢の皇学館《こうがくかん》の図書目録にあった大弐集《だいにしゅう》をよく調べてみると、三位の娘で、後冷泉帝の皇后に仕えて大弐と呼ばれた人のもので、祖母にはもとより、母の三位の歌にも数等劣った作ばかりのものであった。
 更科日記《さらしなにっき》にすでに浮舟《うきふね》の姫君のことがいわれているが、更科日記は後年になって少女時代からのことを書き出したものであるから、多少覚え違いがあるかもしれない。私の二十六年は更科日記の作者が上京した年をも参考として数えたものであるが、あるいはいま少しへだたりが多いかもしれない。
 若菜において文章も叙述の方法も拙かった作者は柏木《かしわぎ》になり、夕霧《ゆうぎり》になり、立派なものになってきた。内容に天才的な豊かなものが盛られているからである。東屋《あずまや》以後は技巧も内容にともなって素晴らしいものになった。前篇の紫式部は小説作家として歌人としていみじき作者であって、後篇を書いた大弐の三位は偉大なる文学者だと私は思っている。これをくわしく述べる時間がないのは残念である。
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昭和十四年
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[#地から2字上げ]与謝野晶子




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