悪魔|三度《みたび》ユダに云ひけるは、「イエスを祭司の長《をさ》たちに売《わた》せ。然《さ》すれば爾《なんぢ》の名、イエスの名と共に伝はらん。イエスの名太陽よりも光あれば、爾の名|黒暗《やみ》よりも恐怖あらん。爾は天国の奴隷《しもべ》たらざるも、必《かならず》地獄の王たるべし。バビロンの淫婦は爾《なんぢ》[#ルビの「なんぢ」は底本では「なんじ」]の妃《ひ》、七頭《しちとう》の毒竜は爾の馬、火と煙と硫黄《いわう》とは汝《なんぢ》が黒檀《こくたん》の宝座《みくら》の前に、不断の香煙《かうえん》を上《のぼ》らしめん。」ユダこの声を聞[#「聞」は底本では「闇」]きし時、目《ま》のあたりに地獄の荘厳を見たり。イエス忽ちユダに一撮《ひとつまみ》の食物を与へ、静かに彼に云ひけるは、「爾《なんぢ》が為さんとする事は速かに為せ。」ユダ一撮の食物を受け、直ちに出でたり。時既に夜《よ》なりき。ユダ祭司の長《をさ》カヤパの前に至り、イエスを彼に売《わた》さんと云へり。カヤパ駭《おどろ》きて云ひけるは、「爾《なんぢ》は何物なるか、イエスの弟子《でし》か、はたイエスの師か。」そはユダの姿、額は嵐の空よりも黒み、眼は焔よりも輝きつつ、王者の如く振舞ひしが故なり。……

     眼
[#地から1字上げ]――中華《ちうくわ》第一の名庖丁《めいはうちやう》張粛臣《やうしゆくしん》の談――

 眼をね、今日《けふ》は眼を御馳走しようと思つたのです。何《なん》の眼? 無論人間の眼をですよ。そりや眼を召上《めしあ》がらなければ、人間を召上つたとは云はれませんや。眼と云ふやつはうまいものですぜ。脂があつて、歯ぎれがよくつて、――え、何《なに》にする? まあ、湯《タン》へ入れるんですね。丁度《ちやうど》鳩の卵のやうに、白眼《しろめ》と黒眼《くろめ》とはつきりしたやつが、香菜《シヤンツアイ》が何かぶちこんだ中に、ふはふは浮いてゐやうと云ふんです。どうです? 悪くはありますまい。私《わたし》なんぞは話してゐても、自然と唾気《つばき》がたまつて来ますぜ。そりや清湯燕窩《せいたうえんくわ》だとか清湯|鴒蛋《れいたん》だとかとは、比べものにも何《なに》にもなりませんや。所が今日《けふ》その眼を抜いて見ると、――これにや私も驚きましたね。まるで使ひものにやならないんです。何、男か女か? 男ですよ。男も男も、髭《ひげ》の生
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