え見えないことは前と少しも変らなかった。僕は又何か無気味になり、何度も空を仰いで見たりした。すると妻も気づいたと見え、まだ何とも言わないうちに僕の疑問に返事をした。
「砂のせいですね。そうでしょう?」
妻は両袖《りょうそで》を合せるようにし、広い砂浜をふり返っていた。
「そうらしいね。」
「砂と云うやつは悪戯《いたずら》ものだな。蜃気楼《しんきろう》もこいつが拵《こしら》えるんだから。………奥さんはまだ蜃気楼を見ないの?」
「いいえ、この間一度、――何だか青いものが見えたばかりですけれども。………」
「それだけですよ。きょう僕たちの見たのも。」
僕等は引地川《ひきじがわ》の橋を渡り、東家《あずまや》の土手の外を歩いて行った。松は皆いつか起り出した風にこうこうと梢《こずえ》を鳴らしていた。そこへ背の低い男が一人、足早にこちらへ来るらしかった。僕はふとこの夏見た或錯覚を思い出した。それはやはりこう云う晩にポプラアの枝にかかった紙がヘルメット帽のように見えたのだった。が、その男は錯覚ではなかった。のみならず互に近づくのにつれ、ワイシャツの胸なども見えるようになった。
「何だろう、あのネク
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