漱石山房の冬
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)毯《たん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)或|夜《よ》である。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正十一年十二月)
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わたしは年少のW君と、旧友のMに案内されながら、久しぶりに先生の書斎へはひつた。
書斎は此処へ建て直つた後、すつかり日当りが悪くなつた。それから支那の五羽鶴の毯《たん》も何時の間にか大分色がさめた。最後にもとの茶の間との境、更紗の唐紙のあつた所も、今は先生の写真のある仏壇に形を変へてゐた。
しかしその外は不相変である。洋書のつまつた書棚もある。「無絃琴」の額もある。先生が毎日原稿を書いた、小さい紫檀の机もある。瓦斯煖炉もある。屏風もある。縁の外には芭蕉もある。芭蕉の軒を払つた葉うらに、大きい花さへ腐らせてゐる。銅印《どういん》もある。瀬戸《せと》の火鉢もある。天井《てんじやう》には鼠の食ひ破つた穴も、……
わたしは天井を見上げながら、独り言《ごと》のやうにかう云つた。
「天井は張り換へなかつたのかな。」
「張り換へたんだがね。鼠のやつにはかなはないよ。」
Mは元気さうに笑つてゐた。
十一月の或|夜《よ》である。この書斎に客が三人あつた。客の一人《ひとり》はO君である。O君は綿抜瓢一郎《わたぬきへういちらう》と云ふ筆名のある大学生であつた。あとの二人《ふたり》も大学生である。しかしこれはO君が今夜先生に紹介したのである。その一人は袴をはき、他の一人は制服を着てゐる。先生はこの三人の客にこんなことを話してゐた。「自分はまだ生涯に三度《さんど》しか万歳を唱へたことはない。最初は、……二度目は、……三度目は、……」制服を着た大学生は膝の辺《あた》りの寒い為に、始終ぶるぶる震へてゐた。
それが当時のわたしだつた。もう一人の大学生、――袴をはいたのはKである。Kは或事件の為に、先生の歿後来ないやうになつた。同時に又旧友のMとも絶交の形になつてしまつた。これは世間も周知のことであらう。
又十月の或夜である。わたしはひとりこの書斎に、先生と膝をつき合せてゐた。話題はわたしの身の上だつた。文を売つて口を餬《こ》するのも好《よ》い。しかし買ふ方は商売である。それを一々註文通り、引き受けて
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