ゐてはたまるものではない。貧の為ならば兎《と》に角《かく》も、慎《つつし》むべきものは濫作である。先生はそんな話をした後《のち》、「君はまだ年が若いから、さう云ふ危険などは考へてゐまい。それを僕が君の代りに考へて見るとすればだね」と云つた。わたしは今でもその時の先生の微笑を覚えてゐる。いや、暗い軒先の芭蕉《ばせう》の戦《そよ》ぎも覚えてゐる。しかし先生の訓戒には忠だつたと云ひ切る自信を持たない。
 更に又十二月の或夜である。わたしはやはりこの書斎に瓦斯《ガス》煖炉の火を守つてゐた。わたしと一しよに坐つてゐたのは先生の奥さんとMとである。先生はもう物故《ぶつこ》してゐた。Mとわたしとは奥さんにいろいろ先生の話を聞いた。先生はあの小さい机に原稿のペンを動かしながら、床板《ゆかいた》を洩れる風の為に悩まされたと云ふことである。しかし先生は傲語《がうご》してゐた。「京都《きやうと》あたりの茶人の家と比《くら》べて見給へ。天井《てんじやう》は穴だらけになつてゐるが、兎《と》に角《かく》僕の書斎は雄大だからね。」穴は今でも明いた儘である。先生の歿後七年の今でも……
 その時若いW君の言葉はわたしの追憶を打ち破つた。
「和本は虫が食ひはしませんか?」
「食ひますよ。そいつにも弱つてゐるんです。」
 Mは高い書棚の前へW君を案内した。

     ×   ×   ×

 三十分の後《のち》、わたしは埃《ほこり》風に吹かれながら、W君と町を歩いてゐた。
「あの書斎は冬は寒かつたでせうね。」
 W君は太い杖を振り振り、かうわたしに話しかけた。同時にわたしは心の中にありありと其処《そこ》を思ひ浮べた。あの蕭条《せうでう》とした先生の書斎を。
「寒かつたらう。」
 わたしは何か興奮の湧き上つて来るのを意識した。が、何分かの沈黙の後《のち》、W君は又話しかけた。
「あの末次平蔵《すゑつぐへいざう》ですね、異国御朱印帳《いこくごしゆいんちやう》を検《しら》べて見ると、慶長《けいちやう》九年八月二十六日、又朱印を貰つてゐますが、……」
 わたしは黙然《もくねん》と歩き続けた。まともに吹きつける埃風の中にW君の軽薄を憎みながら。
[#地から1字上げ](大正十一年十二月)



底本:「芥川龍之介作品集第三巻」昭和出版社
   1965(昭和40)年12月20日発行
入力:j.utiyama
校正:
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