物事を見てゐても、日本では革命《かくめい》なんかも、存外《ぞんぐわい》雑作《ざふさ》なく行はれて、外国で見る様な流血革命の惨《さん》を見ずに済む様な気がする。

     刑

 死刑の時|絞首台《かうしゆだい》迄|一人《ひとり》で歩いてゆける人は、殆《ほとん》ど稀《まれ》ださうだ。大抵《たいてい》は抱《かか》へられる様に台に登る。
 米国では幾州か既《すで》に死刑の全廃が行はれてゐる。日本でも遠からず死刑と云ふ事はなくなるだらう。
 無暗《むやみ》と人を殺したがる人に、一緒《いつしよ》に生活されるのは、迷惑な話ではある。だがその人自身にとつて見れば、一生を監禁される――それだけで、もう充分なのだから、強ひて死刑なぞにする必要はない筈である。

     又

 囚人《しうじん》にとつては、外出の自由を縛《しば》られてゐるだけで、十二分の苦しみである。
 在監中、その人の仕事迄取りあげなくともよささうなものである。
 仮に僕が何かの事で監獄《かんごく》にはいる様な事があつたら、その時にはペンと紙と本は与へて貰ひたいものだ。僕が縄《なは》をなつてみたところではじまらない話ではないか。


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