けだつた。侍は口を動かさうとした。しかしまだ何も云はない内に、突然何処からか女の声が、細そぼそと歎きを送つて来た。
侍は太刀に手をかけた。が、声は曲殿の空に、一しきり長い尾を引いた後、だんだん又何処かへ消えて行つた。
「御仏を念じておやりなされ。――」
法師は月光に顔を擡《もた》げた。
「あれは極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐《ふがひ》ない女の魂でござる。御仏を念じておやりなされ。」
しかし侍は返事もせずに、法師の顔を覗きこんだ。と思ふと驚いたやうに、その前へいきなり両手をついた。
「内記《ないき》の上人《しやうにん》ではございませんか? どうして又このやうな所に――」
在俗の名は慶滋《よししげ》の保胤《やすたね》、世に内記の上人と云ふのは、空也《くうや》上人の弟子の中にも、やん事ない高徳の沙門《しやもん》だつた。
[#地から2字上げ](大正十一年七月)
底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:林めぐみ
1998年12月2日公開
2004年3月16日修正
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