六の宮の姫君
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)古い宮腹《みやばら》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)或|時雨《しぐれ》の渡つた夜

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(例)[#地から2字上げ](大正十一年七月)
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       一

 六の宮の姫君の父は、古い宮腹《みやばら》の生れだつた。が、時勢にも遅れ勝ちな、昔気質《むかしかたぎ》の人だつたから、官も兵部大輔《ひやうぶのたいふ》より昇らなかつた。姫君はさう云ふ父母《ちちはは》と一しよに、六の宮のほとりにある、木高《こだか》い屋形《やかた》に住まつてゐた。六の宮の姫君と云ふのは、その土地の名前に拠《よ》つたのだつた。
 父母は姫君を寵愛《ちようあい》した。しかしやはり昔風に、進んでは誰にもめあはせなかつた。誰か云ひ寄る人があればと、心待ちに待つばかりだつた。姫君も父母の教へ通り、つつましい朝夕を送つてゐた。それは悲しみも知らないと同時に、喜びも知らない生涯だつた。が、世間見ずの姫君は、格別不満も感じなかつた。「父母さへ達者でゐてくれれば好い。」――姫君はさう思つてゐた。
 古い池に枝垂《しだ》れた桜は、年毎に乏しい花を開いた。その内に姫君も何時《いつ》の間にか、大人寂《おとなさ》びた美しさを具へ出した。が、頼みに思つた父は、年頃酒を過ごした為に、突然故人になつてしまつた。のみならず母も半年ほどの内に、返らない歎きを重ねた揚句、とうとう父の跡を追つて行つた。姫君は悲しいと云ふよりも、途方に暮れずにはゐられなかつた。実際ふところ子の姫君にはたつた一人の乳母《うば》の外に、たよるものは何もないのだつた。
 乳母はけなげにも姫君の為に、骨身を惜まず働き続けた。が、家に持ち伝へた螺鈿《らでん》の手筥《てばこ》や白がねの香炉は、何時か一つづつ失はれて行つた。と同時に召使ひの男女も、誰からか暇をとり始めた。姫君にも暮らしの辛《つら》い事は、だんだんはつきりわかるやうになつた。しかしそれをどうする事も、姫君の力には及ばなかつた。姫君は寂しい屋形の対《たい》に、やはり昔と少しも変らず、琴を引いたり歌を詠《よ》んだり、単調な遊びを繰返してゐた。
 すると或秋の夕ぐれ、乳母は姫君の前へ出ると、考へ考へこんな事を云つた。
「甥《をひ》の法師の頼みますには、丹波《たんば》の前司《ぜんじ》なにがしの殿が、あなた様に会はせて頂きたいとか申して居るさうでございます。前司はかたちも美しい上、心ばへも善いさうでございますし、前司の父も受領《ずりやう》とは申せ、近い上達部《かんだちめ》の子でもございますから、お会ひになつては如何《いかが》でございませう? かやうに心細い暮しをなさいますよりも、少しは益《ま》しかと存じますが。……」
 姫君は忍び音《ね》に泣き初めた。その男に肌身を任せるのは、不如意な暮しを扶《たす》ける為に、体を売るのも同様だつた。勿論それも世の中には多いと云ふ事は承知してゐた。が、現在さうなつて見ると、悲しさは又格別だつた。姫君は乳母と向き合つた儘、葛《くず》の葉を吹き返す風の中に、何時までも袖を顔にしてゐた。……

       二

 しかし姫君は何時の間にか、夜毎に男と会ふやうになつた。男は乳母の言葉通りやさしい心の持ち主だつた。顔かたちもさすがにみやびてゐた。その上姫君の美しさに、何も彼《か》も忘れてゐる事は、殆《ほとんど》誰の目にも明らかだつた。姫君も勿論この男に、悪い心は持たなかつた。時には頼もしいと思ふ事もあつた。が、蝶鳥《てふとり》の几帳《きちやう》を立てた陰に、燈台の光を眩《まぶ》しがりながら、男と二人むつびあふ時にも、嬉しいとは一夜も思はなかつた。
 その内に屋形は少しづつ、花やかな空気を加へ初めた。黒棚や簾《すだれ》も新たになり、召使ひの数も殖《ふ》えたのだつた。乳母は勿論以前よりも、活《い》き活きと暮しを取り賄《まかな》つた。しかし姫君はさう云ふ変化も、寂しさうに見てゐるばかりだつた。
 或|時雨《しぐれ》の渡つた夜、男は姫君と酒を酌《く》みながら、丹波の国にあつたと云ふ、気味の悪い話をした。出雲路《いづもぢ》へ下る旅人が大江山の麓に宿を借りた。宿の妻は丁度その夜、無事に女の子を産み落した。すると旅人は生家《うぶや》の中から、何とも知れぬ大男が、急ぎ足に外へ出て来るのを見た。大男は唯「年は八歳、命《めい》は自害」と云ひ捨てたなり、忽《たちま》ち何処《どこ》かへ消えてしまつた。旅人はそれから九年目に、今度は京へ上る途中、同じ家に宿つて見た。所が実際女の子は、八つの年に変死してゐた。しかも木から落ちた拍子に、鎌を喉《のど》へ突き立ててゐた。――話は大体かう云ふのだつた。姫君はそれを聞いた
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