時に、宿命のせんなさに脅《おびやか》された。その女の子に比べれば、この男を頼みに暮してゐるのは、まだしも仕合せに違ひなかつた。「なりゆきに任せる外はない。」――姫君はさう思ひながら、顔だけはあでやかにほほ笑んでゐた。
屋形の軒に当つた松は、何度も雪に枝を折られた。姫君は昼は昔のやうに、琴を引いたり双六《すごろく》を打つたりした。夜は男と一つ褥《しとね》に、水鳥の池に下りる音を聞いた。それは悲しみも少いと同時に、喜びも少い朝夕だつた。が、姫君は不相変《あひかわらず》、この懶《ものう》い安らかさの中に、はかない満足を見出してゐた。
しかしその安らかさも、思ひの外《ほか》急に尽きる時が来た。やつと春の返つた或夜、男は姫君と二人になると、「そなたに会ふのも今宵《こよひ》ぎりぢや」と、云ひ悪《に》くさうに口を切つた。男の父は今度の除目《ぢもく》に、陸奥《むつ》の守《かみ》に任ぜられた。男もその為に雪の深い奥へ、一しよに下らねばならなかつた。勿論姫君と別れるのは、何よりも男には悲しかつた。が、姫君を妻にしたのは、父にも隠してゐたのだから、今更打ち明ける事は出来悪《できにく》かつた。男はため息をつきながら、長々とさう云ふ事情を話した。
「しかし五年たてば任終《にんはて》ぢや。その時を楽しみに待つてたもれ。」
姫君はもう泣き伏してゐた。たとひ恋しいとは思はぬまでも、頼みにした男と別れるのは、言葉には尽せない悲しさだつた。男は姫君の背を撫でては、いろいろ慰めたり励ましたりした。が、これも二言目には、涙に声を曇らせるのだつた。
其処へ何も知らない乳母は、年の若い女房たちと、銚子《てうし》や高坏《たかつき》を運んで来た。古い池に枝垂《しだ》れた桜も、蕾《つぼみ》を持つた事を話しながら。……
三
六年目の春は返つて来た。が、奥へ下つた男は、遂に都へは帰らなかつた。その間に召使ひは一人も残らず、ちりぢりに何処かへ立ち退《の》いてしまふし、姫君の住んでゐた東の対《たい》も或年の大風に倒れてしまつた。姫君はそれ以来乳母と一しよに侍《さむらひ》の廊《ほそどの》を住居《すまひ》にしてゐた。其処は住居と云ふものの、手狭でもあれば住み荒してもあり、僅に雨露《あめつゆ》の凌《しの》げるだけだつた。乳母はこの廊《ほそどの》へ移つた当座、いたはしい姫君の姿を見ると、涙を落さずにはゐられなかつた。が、又或時は理由もないのに、腹ばかり立ててゐる事があつた。
暮しのつらいのは勿論だつた。棚の厨子《づし》はとうの昔、米や青菜に変つてゐた。今では姫君の袿《うちぎ》や袴《はかま》も身についてゐる外は残らなかつた。乳母は焚《た》き物に事を欠けば、立ち腐れになつた寝殿《しんでん》へ、板を剥《は》ぎに出かける位だつた。しかし姫君は昔の通り、琴や歌に気を晴らしながら、ぢつと男を待ち続けてゐた。
するとその年の秋の月夜、乳母は姫君の前へ出ると、考へ考へこんな事を云つた。
「殿はもう御帰りにはなりますまい。あなた様も殿の事は、お忘れになつては如何《いかが》でございませう。就てはこの頃或|典薬之助《てんやくのすけ》が、あなた様にお会はせ申せと、責め立てて居るのでございますが、……」
姫君はその話を聞きながら、六年|以前《まへ》の事を思ひ出した。六年以前には、いくら泣いても、泣き足りない程悲しかつた。が、今は体も心も余りにそれには疲れてゐた。「唯静かに老い朽ちたい。」……その外は何も考へなかつた。姫君は話を聞き終ると、白い月を眺めたなり、懶《ものうげ》げにやつれた顔を振つた。
「わたしはもう何も入《い》らぬ。生きようとも死なうとも一つ事ぢや。……」
* * *
丁度これと同じ時刻、男は遠い常陸《ひたち》の国の屋形に、新しい妻と酒を斟《く》んでゐた。妻は父の目がねにかなつた、この国の守《かみ》の娘だつた。
「あの音は何ぢや?」
男はふと驚いたやうに、静かな月明りの軒を見上げた。その時なぜか男の胸には、はつきり姫君の姿が浮んでゐた。
「栗の実が落ちたのでございませう。」
常陸の妻はさう答へながら、ふつつかに銚子の酒をさした。
四
男が京へ帰つたのは、丁度九年目の晩秋だつた。男と常陸の妻の族《うから》と、――彼等は京へはひる途中、日がらの悪いのを避ける為に、三四日|粟津《あはづ》に滞在した。それから京へはひる時も、昼の人目に立たないやうに、わざと日の暮を選ぶ事にした。男は鄙《ひな》にゐる間も、二三度京の妻のもとへ、懇《ねんご》ろな消息をことづけてやつた。が、使が帰らなかつたり、幸ひ帰つて来たと思へば、姫君の屋形がわからなかつたり、一度も返事は手に入らなかつた。それだけに京へはひつたとなると、恋しさも亦|一層《
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