》さこいと云う字を金糸でぬわせ、裾に清十郎とねたところ」だのと云う、なまめいた文句を、二の上った、かげへかげへとまわってゆく三味線の音《ね》につれて、語ってゆく、さびた声が久しく眠っていたこの老人の心を、少しずつ目ざませて行ったのであろう。始めは背をまげて聞いていたのが、いつの間にか腰を真直に体をのばして、六金さんが「浅間《あさま》の上《じょう》」を語り出した時分には、「うらみも恋も、のこり寝の、もしや心のかわりゃせん」と云うあたりから、目をつぶったまま、絃《いと》の音にのるように小さく肩をゆすって、わき眼にも昔の夢を今に見かえしているように思われた。しぶいさび[#「さび」に傍点]の中に、長唄や清元にきく事の出来ないつや[#「つや」に傍点]をかくした一中《いっちゅう》の唄と絃とは、幾年となくこの世にすみふるして、すいもあまいも、かみ分けた心の底にも、時ならない情《なさけ》の波を立てさせずには置かないのであろう。
「浅間の上」がきれて「花子」のかけあいがすむと、房さんは「どうぞ、ごゆるり。」と挨拶をして、座をはずした。丁度、その時、御会席で御膳が出たので、暫くはいろいろな話で賑やかだった
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