の底へ毒をさしたやうな気がするからであつた。
「おれは今までにもあの男を何度殺さうと思つたかわからない。しかしまだ今夜のやうに、妙な気のした事はないのだが……」
彼はこんな事を考へながら、青い匂のする菅畳の上に、幾度となく寝返りを打つた。眠はそれでも彼の上へ、容易に下らうとはしなかつた。
その間に寂しい暁は早くも暗い海の向うに、うすら寒い色を拡げ出した。
九
翌朝もう朝日の光が、海一ぱいに当つてゐる頃であつた。まだ寝の足りない素戔嗚は眩《まぶ》しさうに眉をひそめながら、のそのそ宮の戸口へ出かけて来た。すると其処の階段《きざはし》の上には、驚くまい事か、葦原醜男が、須世理姫と一しよに腰をかけて、何事か嬉しさうに話し合つてゐた。
二人も素戔嗚の姿を見ると、吃驚《びつくり》したらしい容子であつた。が、すぐに葦原醜男は不相変《あひかはらず》快活に身を起して、一筋の丹塗矢《にぬりや》をさし出しながら、
「幸ひ矢も見つかりました。」と云つた。
素戔嗚はまだ驚きが止まなかつた。しかしその中にも何となく、無事な若者の顔を見るのが、悦《よろこ》ばしいやうな心もちもした。
「よく怪我をしなかつたな?」
「ええ。全く偶然助かりました。あの火事が燃えて来たのは、丁度私がこの丹塗矢を拾ひ上げた時だつたのです。私は煙の中をくぐりながら、兎も角火のつかない方へ、一生懸命に逃げて行きましたが、いくらあせつて見た所が、到底西風に煽《あふ》られる火よりも早くは走られません。……」
葦原醜男はちよいと言葉を切つて、彼の話に聞き入つてゐる親子の顔へ微笑を送つた。
「そこでもう今度は焼け死ぬに違ひないと、覚悟をきめた時でした。走つてゐる内にどうしたはずみか、急に足もとの土が崩れると、大きな穴の中へ落ちこんだのです。穴の中は最初まつ暗でしたが、縁《ふち》の枯草が燃えるやうになると、忽ち底まで明くなりました。見ると私のまはりには、何百匹とも知れない野鼠が、土の色も見えない程ひしめき合つてゐるのです……。」
「まあ、野鼠でよろしうございました。それが蝮《まむし》ででもございましたら……」
須世理姫の眼の中には、涙と笑とが刹那《せつな》の間、同時に動いたやうであつた。
「いや、野鼠でも莫迦《ばか》にはなりません。この丹塗矢の羽根のないのは、その時みんな食はれたのです。が、仕合せと火事は何事もなく、穴の外を焼き通つてしまひました。」
素戔嗚はこの話を聞いてゐる内に、だんだん又この幸運な若者を憎む心が動いて来た。のみならず、一度殺さうと思つた以上、どうしてもその目的を遂げない中は、昔から挫折した覚えのない意力の誇りが満足しなかつた。
「さうか。それは運が好かつたな。が、運と云ふものは、何時《いつ》風向きが変るかわからないものだ。……が、そんな事はどうでも好い。兎に角命が助つたのなら、おれと一しよにこちらへ来て、頭の虱《しらみ》をとつてくれい。」
葦原醜男と須世理姫とは、仕方なく彼の後について、朝日の光のさしこんでゐる、大広間の白い帷《とばり》をくぐつた。
素戔嗚は広間のまん中に、不機嫌らしい大あぐらを組むと、みづらに結んだ髪を解いて、無造作に床の上に垂らした。素枯《すが》れた蘆の色をした髪は、殆ど川のやうに長かつた。
「おれの虱はちと手強《てごは》いぞ。」
かう云ふ彼の言葉を聞き流しながら、葦原醜男はその白髪を分けて、見つけ次第虱を捻《ひね》らうとした。が、髪の根に蠢《うごめ》いてゐるのは、小さな虱と思ひの外、毒々しい、銅色《あかがねいろ》の、大きな百足《むかで》ばかりであつた。
十
葦原醜男はためらつた。すると側にゐた須世理姫が、何時の間に忍ばせて持つて来たか、一握りの椋《むく》の実と赤土とをそつと彼の手へ渡した。彼はそこで歯を鳴らして、その椋の実を噛みつぶしながら、赤土も一しよに口へ含んで、さも百足をとつてゐるらしく、床の上へ吐き出し始めた。
その内に素戔嗚は、昨夕《ゆうべ》寝なかつた疲れが出て、我知らずにうとうと眠にはひつた。
……高天原の国を逐《お》はれた素戔嗚は、爪を剥がれた足に岩を踏んで、嶮しい山路を登つてゐた。岩むらの羊歯《しだ》、鴉《からす》の声、それから冷たい鋼色《はがねいろ》の空、――彼の眼に入る限りの風物は、悉《ことごと》く荒涼それ自身であつた。
「おれに何の罪があるか? おれは彼等よりも強かつた。が、強かつた事は罪ではない。罪は寧《むし》ろ彼等にある。嫉妬心の深い、陰険な、男らしくもない彼等にある。」
彼はかう憤りながら、暫く苦しい歩みを続けて行つた。と、路を遮《さへぎ》つた、亀の背のやうな大岩の上に、六つの鈴のついてゐる、白銅鏡が一面のせてあつた。彼はその岩の前に足をとめると、何気なく鏡へ
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