へ進み出した。素戔嗚は私《ひそか》に牙《きば》を噛んで、一尺でも彼に遅れまいとした。しかし相手は大きな波が、二三度泡を撒き散らす間に、苦もなく素戔嗚を抜いてしまつた。さうして重なる波の向うに、何時の間にか姿を隠してしまつた。
「今度こそあの男を海に沈めて、邪魔を払はうと思つたのだが、――」
さう思ふと素戔嗚は、愈《いよいよ》彼を殺さない内は、腹が癒《い》えないやうな心もちになつた。
「畜生! あんな悪賢い浮浪人は、鰐《わに》にでも食はしてしまふが好い。」
しかし程なく葦原醜男は、彼自身がまるで鰐のやうに、楽々とこちらへ返つて来た。
「もつと御泳ぎになりますか?」
彼は波に揺られながら、日頃に変らない微笑を浮べて、遙に素戔嗚へ声をかけた。素戔嗚は如何に剛情を張つても、この上泳がうと云ふ気にはなれなかつた。……
その日の午後素戔嗚は、更に葦原醜男をつれて、島の西に開いた荒野《あらの》へ、狐や兎を狩りに行つた。
二人は荒野のはづれにある、小高い大岩の上へ登つた。荒野は目の及ぶ限り、二人の後から吹下す風に、枯草の波を靡《なび》かせてゐた。素戔嗚は少時《しばらく》黙然と、さう云ふ景色を見守つた後、弓に矢を番《つが》へながら、葦原醜男を振り返つた。
「風があつて都合が悪いが、兎《と》に角《かく》どちらの矢が遠く行くか、お前と弓勢《ゆんぜい》を比べて見よう。」
「ええ、比べて見ませう。」
葦原醜男は弓矢を執つても、自信のあるらしい容子であつた。
「好いか? 同時に射るのだぞ。」
二人は肩を並べながら、力一ぱい弓を引き絞《しぼ》つて、さうして同時に切つて離した。矢は波立つた荒野の上へ、一文字に遠く飛んで行つた。が、どちらが先へ行つたともなく、唯一度日の光にきらりと矢羽根が光つた儘、忽《たちま》ち風下の空に紛れて、二本とも一しよに消えてしまつた。
「勝負があつたか?」
「いいえ――もう一度やつて見ませうか?」
素戔嗚は眉をひそめながら、苛立《いらだ》たしさうに頭を振つた。
「何度やつても同じ事だ。それより面倒でも一走り、おれの矢を探しに行つてくれい。あれは高天原の国から来た、おれの大事な丹塗《にぬり》の矢だ。」
葦原醜男は云ひつかつた通り、風に鳴る荒野へ飛びこんで行つた。すると素戔嗚はその後姿が、高い枯草に隠れるや否や、腰に下げた袋の中から、手早く火打鎌と石とを出して、岩の下の枯茨《かれいばら》へ火を放つた。
八
色のない焔は瞬《またた》く内に、濛々《もうもう》と黒煙を挙げ始めた。と同時にその煙の下から、茨や小篠《をざさ》の焼ける音が、けたたましく耳を弾《はじ》き出した。
「今度こそあの男を片づけたぞ。」
素戔嗚は高い岩の上に、ぢつと弓杖《ゆんづゑ》をつきながら、兇猛な微笑を浮べてゐた。
火は益《ますます》燃え拡がつた。鳥は苦しさうに鳴きながら、何羽も赤黒い空へ舞ひ上つた。が、すぐに又煙に巻かれて、紛々と火の中へ落ちて行つた。それがまるで遠くからは、嵐に振はれた無数の木の実が、しつきりなくこぼれ飛ぶやうに見えた。
「今度こそあの男を片づけたぞ。」
素戔嗚はかう心の中《うち》に、もう一度満足の吐息を洩らすと、何故か云ひやうのない寂しさがかすかに湧いて来るやうな心もちがした。……
その日の薄暮、勝ち誇つた彼は腕を組んで、宮の門に佇みながら、まだ煙の迷つてゐる荒野の空を眺めてゐた。すると其処へ須世理姫が、夕餉《ゆふげ》の仕度の出来たことを気がなささうに報じに来た。彼女は近親の喪《も》を弔ふやうに、何時の間にかまつ白な裳《も》を夕明りの中に引きずつてゐた。
素戔嗚はその姿を見ると、急に彼女の悲しさを踏みにじりたいやうな気がし出した。
「あの空を見ろ。葦原醜男は今時分――」
「存じて居ります。」
須世理姫は眼を伏せてゐたが、思ひの外はつきりと、父親の言葉を遮《さへぎ》つた。
「さうか? ではさぞかし悲しからうな?」
「悲しうございます。よしんば御父様が御歿《おな》くなりなすつても、これ程悲しくございますまい。」
素戔嗚は色を変へて、須世理姫を睨《にら》みつけた。が、それ以上彼女を懲《こ》らす事は、どう云ふものか出来なかつた。
「悲しければ、勝手に泣くが好い。」
彼は須世理姫に背を向けて、荒々しく門の内へはひつて行つた。さうして宮の階段《きざはし》を上りながら、忌々《いまいま》しさうに舌を打つた。
「何時ものおれなら口も利かずに、打ちのめしてやる所なのだが……」
須世理姫は彼の去つた後も、暫くは、暗く火照《ほて》つた空へ、涙ぐんだ眼を挙げてゐたが、やがて頭を垂れながら、悄然《せうぜん》と宮へ帰つて行つた。
その夜素戔嗚は何時までも、眠に就く事が出来なかつた。それは葦原醜男を殺した事が、何となく彼の心
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