眼を落した。鏡は冴《さ》え渡つた面《おもて》の上に、ありありと年若な顔を映した。が、それは彼の顔ではなく、彼が何度も殺さうとした、葦原醜男の顔であつた。……さう思ふと、急に夢がさめた。
彼は大きな眼を開いて、広間の中を見廻した。広間には唯朝日の光が、うららかにさしてゐるばかりで、葦原醜男も須世理姫も、どうしたか姿が見えなかつた。のみならずふと気がついて見ると、彼の長い髪は三つに分けて、天井の桷《たるき》に括《くく》りつけてあつた。
「欺《だま》しをつたな!」
咄嗟《とつさ》に一切悟つた彼は、稜威《いつ》の雄《を》たけびを発しながら、力一ぱい頭《かしら》を振つた。すると忽ち宮の屋根には、地震よりも凄まじい響が起つた。それは髪を括《くく》りつけた、三本の桷《たるき》が三本とも一時にひしげ飛んだ響であつた。しかし素戔嗚は耳にもかけず、まづ右手をさし伸べて、太い天《あめ》の鹿児弓《かごゆみ》を取つた。それから左手をさし伸べて、天《あめ》の羽羽矢《はばや》の靫《ゆぎ》を取つた。最後に両足へ力を入れて、うんと一息に立ち上ると、三本の桷を引きずりながら、雲の峰の崩れるやうに、傲然と宮の外へ揺るぎ出した。
宮のまはりの椋の林は、彼の足音に鳴りどよんだ。それは梢に巣食つた栗鼠《りす》も、ばらばらと大地に落ちる程であつた。彼はその椋の木の間を、嵐のやうに通り抜けた。
林の外は切り岸の上、切り岸の下は海であつた。彼は其処に立ちはだかると、眉の上に手をやりながら、広い海を眺め渡した。海は高い浪の向うに、日輪さへかすかに蒼《あを》ませてゐた。その又浪の重なつた中には、見覚えのある独木舟《まるきぶね》が一艘、沖へ沖へと出る所だつた。
素戔嗚は弓杖《ゆんづゑ》をついたなり、ぢつとこの舟へ眼を注いだ。舟は彼を嘲《あざけ》るやうに、小さい筵帆《むしろぼ》を光らせながら、軽々と浪[#「浪」は底本では「冫+良」]を乗り越えて行つた。のみならず舳《とも》には葦原醜男、艫《へさき》には須世理姫の乗つてゐる容子も、手にとるやうに見る事が出来た。
素戔嗚は天の鹿児弓に、しづしづと天の羽羽矢を番《つが》へた。弓は見る見る引き絞られ、鏃《やじり》は目の下の独木舟に向つた。が、矢は一文字に保たれた儘、容易に弦《つる》を離れなかつた。その内に何時《いつ》か彼の眼には、微笑に似たものが浮び出した。微笑に似た、――しかし其処には同時に又涙に似たものもないではなかつた。彼は肩を聳《そび》やかせた後、無造作に弓矢を抛り出した。それから、――さも堪へ兼ねたやうに、瀑《たき》よりも大きい笑ひ声を放つた。
「おれはお前たちを祝《ことほ》ぐぞ!」
素戔嗚は高い切り岸の上から、遙かに二人をさし招いだ。
「おれよりももつと手力《たぢから》を養へ。おれよりももつと智慧《ちゑ》を磨け。おれよりももつと、……」
素戔嗚はちよいとためらつた後、底力のある声に祝ぎ続けた。
「おれよりももつと仕合せになれ!」
彼の言葉は風と共に、海原の上へ響き渡つた。この時わが素戔嗚は、大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1−47−53]貴《おほひるめむち》と争つた時より、高天原の国を逐《お》はれた時より、高志《こし》の大蛇《をろち》を斬つた時より、ずつと天上の神々に近い、悠々たる威厳に充ち満ちてゐた。
[#地から2字上げ](大正九年)
底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月17日公開
2004年2月18日修正
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