ヘ退屈だぜ。上《かみ》は自動車へ乗っているのから下《しも》は十二階下に巣を食っているのまで、突っくるめて見た所が、まあ精々十種類くらいしかないんだからな。嘘だと思ったら、二年でも三年でも、滅茶滅茶に道楽をして見るが好《い》い。すぐに女の種類が尽きて、面白くも何ともなくなっちまうから。」
「じゃ君も面白くない方か。」
「面白くない方か? 冗談《じょうだん》だろう。――いや、皮肉なら皮肉でも好い。面白くないと云っている僕が、やっぱりこうやって女ばかり追っかけている。それが君にゃ莫迦《ばか》げて見えるんだろう。だがね、面白くないと云うのも本当なんだ。同時にまた面白いと云うのも本当なんだ。」
 大井は四杯目のウイスキイを命じた頃から、次第に平常の傲岸《ごうがん》な態度がなくなって、酔を帯びた眼の中にも、涙ぐんでいるような光が加わって来た。勿論俊助はこう云う相手の変化を、好奇心に富んだ眼で眺めていた。が、大井は俊助の思わくなぞにはさらに頓着しない容子《ようす》で、五杯六杯と続けさまにウイスキイを煽《あお》りながら、ますます熱心な調子になって、
「面白いと云うのはね、女でも追っかけていなけりゃ、それこそつまらなくってたまらないからなんだ。が、追っかけて見た所で、これまた面白くも何ともありゃしない。じゃどうすれば好いんだと君は云うだろう。じゃどうすれば好いんだと――それがわかっているぐらいなら、僕もこんなに寂しい思いなんぞしなくってもすむ。僕は始終僕自身にそう云っているんだ。じゃどうすれば好いんだと。」
 俊助は少し持て余しながら、冗談のように相手を和《やわら》げにかかった。
「惚《ほ》れられるさ。そうすりゃ、少しは面白いだろう。」
 が、大井は反《かえ》って真面目な表情を眼にも眉にも動かしながら、大理石の卓子《テエブル》を拳骨《げんこつ》で一つどんと叩くと、
「所がだ。惚れられるまでは、まだ退屈でも我慢がなるが、惚れられたとなったら、もう万事休すだ。征服の興味はなくなってしまう。好奇心もそれ以上は働きようがない。後《あと》に残るのはただ、恐るべき退屈中の退屈だけだ。しかも女と云うやつは、ある程度まで関係が進歩すると、必ず男に惚れてしまうんだから始末が悪い。」
 俊助は思わず大井の熱心さに釣りこまれた。
「じゃどうすれば好いんだ?」
「だからさ。だからどうすれば好いんだと僕も云っていたんだ。」
 大井はこう云いながら、殺気立った眉をひそめて、七八杯目のウイスキイをまずそうにぐいと飲み干した。

        三十三

 俊助《しゅんすけ》はしばらく口を噤《つぐ》んで、大井《おおい》の指にある金口《きんぐち》がぶるぶる震えるのを眺めていた。と、大井はその金口を灰皿の中へ抛りこんで、いきなり卓子《テエブル》越しに俊助の手をつかまえると、
「おい。」と、切迫した声を出した。
 俊助は返事をする代りに、驚いた眼を挙げて、ちょいと大井の顔を見た。
「おい、君はまだ覚えているだろう、僕があの七時の急行の窓で、女の見送り人に手巾《ハンケチ》を振っていた事があるのを。」
「勿論覚えている。」
「じゃ聞いてくれ。僕はあの女とこの間まで同棲していたんだ。」
 俊助は好奇心が動くと共に、もう好い加減にアルコオル性の感傷主義《センティメンタリズム》は御免を蒙りたいと云う気にもなった。のみならず、周囲の卓子《テエブル》を囲んでいる連中が、さっきからこちらへ迂散《うさん》らしい視線を送っているのも不快だった。そこで彼は大井の言葉には曖昧《あいまい》な返事を与えながら、帳場の側に立っているお藤《ふじ》に、「来い」と云う相図《あいず》をして見せた。が、お藤がそこを離れない内に、最初彼の食事の給仕をした女が、急いで卓子《テエブル》の前へやって来た。
「勘定《かんじょう》をしてくれ。この方《かた》の分も一しょだ。」
 すると大井は俊助の手を離して、やはり眼に涙を湛えたまま、しげしげと彼の顔を眺めたが、
「おい、おい、勘定を払ってくれなんていつ云った? 僕はただ、聞いてくれと云ったんだぜ。聞いてくれりゃ好し、聞いてくれなけりゃ――そうだ。聞いてくれなけりゃ、さっさと帰ったら好いじゃないか。」
 俊助は勘定をすませると、新に火をつけた煙草を啣《くわ》えながら、劬《いたわ》るような微笑を大井に見せて、
「聞くよ。聞くが、ね、我々のように長く坐りこんじゃ、ここの家《うち》も迷惑だろう。だから一まず外へ出た上で、聞く事にしようじゃないか。」
 大井はやっと納得《なっとく》した。が、卓子《テエブル》を離れるとなると、彼は口が達者なのとは反対に、頗《すこぶ》る足元が蹣跚《まんさん》としていた。
「好いか。おい。危いぜ。」
「冗談云っちゃいけない。高がウイスキイの十杯や十五杯――」
 俊助は大井の手をとらないばかりにして、入口の硝子戸《ガラスど》の方へ歩き出した。と、そこにはもうお藤《ふじ》が、大きく硝子戸を開《あ》けながら、心配そうな眼を見張って、二人の出て来るのを待ち受けていた。彼女はそこの天井から下っている支那燈籠《しなどうろう》の光を浴びて、最前《さいぜん》よりはさらに子供らしく、それだけ俊助にはさらに美しく見えた。が、大井はまるでお藤の存在には気がつかなかったものと見えて、逞《たくまし》い俊助の手に背中を抱えられながら、口一つ利《き》かずにその前を通りすぎた。
「難有《ありがと》うございます。」
 大井の後《あと》から外へ出た俊助には、こう云うお藤の言葉の中に、彼の大井に対する厚情を感謝しているような響が感じられた。彼はお藤の方を振り返って、その感謝に答うべき微笑を送る事を吝《おし》まなかった。お藤は彼等が往来へ出てしまってからも、しばらくは明《あかる》い硝子戸の前に佇《たたず》みながら、白い前掛《エプロン》の胸へ両手を合せて、次第に遠くなって行く二人の後姿を、懐しそうにじっと見守っていた。

        三十四

 大井《おおい》は角帽の庇《ひさし》の下に、鈴懸《すずかけ》の並木を照らしている街燈の光を受けるが早いか、俊助《しゅんすけ》の腕へすがるようにして、
「じゃ聞いてくれ。迷惑だろうが、聞いてくれ。」と、執念《しゅうね》くさっきの話を続け出した。
 俊助も今度は約束した手前、一時を糊塗《こと》する訳にも行かなかった。
「あの女は看護婦でね、僕が去年の春|扁桃腺《へんとうせん》を煩《わずら》った時に――まあ、そんな事はどうでも好い、とにかく僕とあの女とは、去年の春以来の関係なんだ。それが君、どうして別れるようになったと思う? 単にあの女が僕に惚れたからなんだ。と云うよりゃ偶然の機会で、惚れていると云う事を僕に見せてしまったからなんだ。」
 俊助は絶えず大井の足元を顧慮しながら、街燈の下を通りすぎる毎に、長くなったり短くなったりする彼等の影を、アスファルトの上に踏んで行った。そうしてややもすると散漫になり勝ちな注意を、相手の話へ集中させるのに忙しかった。
「と云ったって、何も大したいきさつがあった訳でも何でもない。ただ、あいつが僕の所へ来た手紙の事で、嫉妬《やきもち》を焼いただけの事なんだ。が、その時僕はあの女の腹の底まで見えたような気がして、一度に嫌気《いやき》がさしてしまったじゃないか。するとあいつは嫉妬を焼いたと云う、その事だけが悪いんだと思ったもんだから、――いや、これも余談だった。僕が君に話したいのは、その僕の所へ来た手紙と云うやつなんだがね。」
 大井はこう云って、酒臭《さけくさ》い息を吐きながら、俊助の顔を覗《のぞ》くようにした。
「その手紙の差出人は、女名前じゃあったけれど、実は僕自身なんだ。驚くだろう。僕だって、自分で驚いているんだから、君が驚くのはちっとも不思議はない。じゃ何故《なぜ》僕はそんな手紙を書いたんだ? あの女が嫉妬を焼くかどうか、それが知りたかったからさ。」
 さすがにこの時は俊助も、何か得体の知れない物にぶつかったような心もちがした。
「妙な男だな。」
「妙だろう。あいつが僕に惚れている事がわかりゃ、あいつが嫌《いや》になると云う事は、僕は百も承知しているんだ。そうしてあいつが嫌になった暁《あかつき》にゃ、余計世の中が退屈になると云う事も知っているんだ。しかも僕は、その時に、九分九厘まではあの女が嫉妬を焼く事を知っていたんだぜ。それでいて、手紙を書いたんだ。書かなけりゃいられなかったんだ。」
「妙な男だな。」
 俊助は目まぐるしい人通りの中に、足元《あしもと》の怪しい大井をかばいながら、もう一度こう繰返した。
「だから僕の場合はこうなんだ。――女が嫌になりたいために女に惚れる。より退屈になりたいために退屈な事をする。その癖僕は心の底で、ちっとも女が嫌になりたくはないんだ。ちっとも退屈でいたくはないんだ。だから君、悲惨《ひさん》じゃないか。悲惨だろう。この上仕方のない事はないだろう。」
 大井はいよいよ酔が発したと見えて、声さえ感動に堪えないごとく涙ぐむようになって来た。

        三十五

 その内に二人は、本郷行《ほんごうゆき》の電車に乗るべき、ある賑《にぎやか》な四つ辻へ来た。そこには無数の燈火《ともしび》が暗い空を炙《あぶ》った下に、電車、自動車、人力車《じんりきしゃ》の流れが、絶えず四方から押し寄せていた。俊助《しゅんすけ》は生酔《なまよい》の大井《おおい》を連れてこの四つ辻を向うへ突切るには、そう云う周囲の雑沓《ざっとう》と、険呑《けんのん》な相手の足元とへ、同時に気を配らなければならなかった。
 所がやっと向うへ辿《たど》りつくと、大井は俊助の心配には頓着なく、すぐにその通りにあるビヤホオルの看板を見つけて、
「おい、君、もう一杯ここでやって行こう。」と、海老茶《えびちゃ》色をした入口の垂幕《たれまく》を、無造作《むぞうさ》に開いてはいろうとした。
「よせよ。そのくらい御機嫌なら、もう大抵沢山じゃないか。」
「まあ、そんな事を云わずにつき合ってくれ。今度は僕が奢《おご》るから。」
 俊助はこの上大井の酒の相手になって、彼の特色ある恋愛談を傾聴するには、余りにポオト・ワインの酔《よい》が醒めすぎていた。そこで今まで抑えていたマントの背中を離しながら、
「じゃ、君一人で飲んで行くさ。僕はいくら奢《おご》られても真平《まっぴら》だ。」
「そうか。じゃ仕方がない。僕はまだ君に聞いて貰いたい事が残っているんだが――」
 大井は海老茶色の幕へ手をかけたまま、ふらつく足を踏みしめて、しばらく沈吟《ちんぎん》していたが、やがて俊助の鼻の先へ酒臭い顔を持って来ると、
「君は僕がどうしてあの晩、国府津《こうづ》なんぞへ行ったんだか知らないだろう。ありゃね、嫌《いや》になった女に別れるための方便なんだ。」
 俊助は外套の隠しへ両手を入れて、呆《あき》れた顔をしながら、大井と眼を見合せた。
「へええ、どうして?」
「どうしてったって、――まず僕が是非とも国へ帰らなければならないような理由を書き下《おろ》してさ。それから女と泣き別れの愁歎場《しゅうたんば》がよろしくあって、とどあの晩汽車の窓で手巾《ハンケチ》を振ると云うのが大詰《おおづめ》だったんだ。何しろ役者が役者だから、あいつは今でも僕が国へ帰っていると思っているんだろう。時々国の僕へ宛てたあいつの手紙が、こっちの下宿へ転送されて来るからね。」
 大井はこう云って、自《みずか》ら嘲るように微笑しながら、大きな掌《てのひら》を俊助の肩へかけて、
「僕だってそんな化《ばけ》の皮が、永久に剥《は》げないとは思っていない。が、剥げるまでは、その化の皮を大事にかぶっていたいんだ。この心もちは君に通じないだろうな。通じなけりゃ――まあ、それまでだが、つまり僕は嫌になった女に別れるんでも、出来るだけ向うを苦しめたくないんだ。出来るだけ――いくら嘘をついてもだね。と云って、何もその場合まで好《い》い子になりたいと云うんじゃない。向うのために、女のために、そうしてやるべき一種の義務が存在す
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