驍謔、な気がするんだ。君は矛盾《むじゅん》だと思うだろう。矛盾もまた甚しいと思うだろう。だろうが、僕はそう云う人間なんだ。それだけはどうか呑み込んで置いてくれ。――じゃ失敬しよう。わが親愛なる安田俊助《やすだしゅんすけ》。」
大井は妙な手つきをして、俊助の肩を叩いたと思うと、その手に海老茶色の垂幕を挙げて、よろよろビヤホオルの中へはいってしまった。
「妙な男だな。」
俊助は軽蔑とも同情とも判然しない一種の感情に動かされながら三度《みたび》こう呟いて、クラブ洗粉《あらいこ》の広告電燈が目まぐるしく明滅する下を、静に赤い停留場《ていりゅうば》の柱の方へ歩き出した。
三十六
下宿へ帰って来た俊助《しゅんすけ》は、制服を和服に着換《きかえ》ると、まず青い蓋《かさ》をかけた卓上電燈の光の下で、留守中《るすちゅう》に届いていた郵便へ眼を通した。その一つは野村《のむら》の手紙で、もう一つは帯封に乞《こう》高評《こうひょう》の判がある『城』の今月号だった。
俊助は野村の手紙を披《ひら》いた時、その半切《はんきれ》を埋《うず》めているものは、多分父親の三回忌に関係した、家事上の紛紜《ふんうん》か何かだろうと云う、朧《おぼろ》げな予期を持っていた。ところがいくら読んで行っても、そう云う実際方面の消息はほとんど一句も見当らなかった。その代り郷土の自然だの生活だのの叙述が、到る所に美しい詠歎的な文字を並べていた。磯山《いそやま》の若葉の上には、もう夏らしい海雲《かいうん》が簇々《ぞくぞく》と空に去来していると云う事、その雲の下に干してある珊瑚採取《さんごさいしゅ》の絹糸の網が、眩《まばゆ》く日に光っていると云う事、自分もいつか叔父の持ち船にでも乗せて貰って、深海の底から珊瑚の枝を曳き上げたいと思っていると云う事――すべてが哲学者と云うよりは、むしろ詩人にふさわしい熱情の表現とも云わるべき性質のものだった。
俊助にはこの絢爛《けんらん》たる文句の中に、現在の野村の心もちが髣髴出来るように感ぜられた。それは初子《はつこ》に対する純粋な愛が遍照《へんしょう》している心もちだった。そこには優しい喜びがあった。あるいはかすかな吐息《といき》があった。あるいはまたややもすれば流れようとする涙があった。だからその心もちを通過する限り、野村の眼に映じた自然や生活は、いずれも彼自身の愛の円光に、虹のごとき光彩を与えられていた。若葉も、海も、珊瑚採取も、ことごとくの意味においては、地上の実在を超越した一種の天啓にほかならなかった。従って彼の長い手紙も、その素朴な愛の幸福に同情出来るもののみが、始めて意味を解すべき黙示録《アポカリプス》のようなものだった。
俊助は微笑と共に、野村の手紙を巻きおさめて、今度は『城』の封を切った。表紙にはビアズリイのタンホイゼルの画が刷《す》ってあって、その上に l'art pour l'art と、細い朱文字《しゅもじ》で入れた銘があった。目次を見ると、藤沢の「鳶色《とびいろ》の薔薇《ばら》」と云う抒情詩的の戯曲を筆頭に、近藤のロップス論とか、花房《はなぶさ》のアナクレオンの飜訳とか、いろいろな表題が行列していた。俊助ははなはだ同情のない眼で、しばらくそれらの表題を見廻していたが、やがて「倦怠《けんたい》」――大井篤夫《おおいあつお》と云う一行の文字にぶつかると、急にさっきの大井の姿が鮮かに記憶に浮んで来たので、早速その小説が載っている巻末の頁をはぐって見た。と、それは三人称でこそ書いてはあるが、実は今夜聞いた大井の告白を、そのまま活字にしたような小説だった。
俊助はわずか十分ばかりの間に、造作なく「倦怠」を読み終るとまた野村の手紙をひろげて見て、その達筆な行《ぎょう》の上へ今更のように怪訝《かいが》の眼を落した。この手紙の中に磅※[#「石+薄」、第3水準1−89−18]《ほうはく》している野村の愛と、あの小説の中にぶちまけてある大井の愛と――一人の初子に天国を見ている野村と、多くの女に地獄《じごく》を見ている大井と――それらの間にある大きな懸隔は、一体どこから生じたのだろう。いや、それよりも二人の愛は、どちらが本当の愛なのだろう。野村の愛が幻か。大井の愛が利己心か。それとも両方がそれぞれの意味で、やはり為《いつわり》のない愛だろうか。そうして彼自身の辰子に対する愛は?
俊助は青い蓋《かさ》をかけた卓上電燈の光の下に、野村の手紙と大井の小説とを並べたまま、しばらくは両腕を胸に組んで、じっと西洋机《デスク》の前へ坐っていた。
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(以上を以て「路上」の前篇を終るものとす。後篇は他日を期する事とすべし。)
[#地から1字上げ](大正八年七月)
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底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年12月1日第1刷発行
1996(平成8)年4月1日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年3月1日公開
2004年3月9日修正
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