竄ヨ挿《さ》してあった。新田は三人に椅子を薦《すす》めると、俊助《しゅんすけ》の問に応じて、これは病院の温室で咲かせた薔薇だと返答した。
 それから新田は、初子《はつこ》と辰子《たつこ》との方へ向いて、予《あらかじ》め俊助が依頼して置いた通り、精神病学に関する一般的智識とでも云うべきものを、歯切れの好《い》い口調で説明した。彼は俊助の先輩として、同じ高等学校にいた時分から、畠違《はたけちが》いの文学に興味を持っている男だった。だからその説明の中にも、種々の精神病者の実例として、ニイチェ、モオパッサン、ボオドレエルなどと云う名前が、一再ならず引き出されて来た。
 初子は熱心にその説明を聞いていた。辰子も――これは始終|伏眼《ふしめ》がちだったが、やはり相当な興味だけは感じているらしく思われた。俊助は心の底の方で、二人の注意を惹《ひ》きつけている説明者の新田が羨しかった。が、二人に対する新田の態度はほとんど事務的とも形容すべき、甚だ冷静なものだった。同時にまた縞の背広に地味な襟飾《ネクタイ》をした彼の服装も、世紀末《せいきまつ》の芸術家の名前を列挙するのが、不思議なほど、素朴に出来上っていた。
「何だか私、御話を伺っている内に、自分も気が違っているような気がして参りました。」
 説明が一段落ついた所で、初子はことさら真面目な顔をしながら、ため息をつくようにこう云った。
「いや、実際厳密な意味では、普通|正気《しょうき》で通っている人間と精神病患者との境界線が、存外はっきりしていないのです。況《いわ》んやかの天才と称する連中《れんじゅう》になると、まず精神病者との間に、全然差別がないと云っても差支えありません。その差別のない点を指摘したのが、御承知の通りロムブロゾオの功績です。」
「僕は差別のある点も指摘して貰いたかった。」
 こう俊助が横合《よこあい》から、冗談《じょうだん》のように異議を申し立てると、新田は冷かな眼をこちらへ向けて、
「あれば勿論指摘したろう。が、なかったのだから、やむを得ない。」
「しかし天才は天才だが、気違いはやはり気違いだろう。」
「そう云う差別なら、誇大妄想狂《こだいもうぞうきょう》と被害《ひがい》妄想狂との間にもある。」
「それとこれと一しょにするのは乱暴だよ。」
「いや、一しょにすべきものだ。成程天才は有為《エフィシエント》だろう。狂人は有為《エフィシエント》じゃないに違いない。が、その差別は人間が彼等の所行《しょぎょう》に与えた価値の差別だ。自然に存している差別じゃない。」
 新田の持論を知っている俊助は、二人の女と微笑を交換して、それぎり口を噤《つぐ》んでしまった。と、新田もさすがに本気すぎた彼自身を嘲るごとく、薄笑の唇を歪《ゆが》めて見せたが、すぐに真面目な表情に返ると、三人の顔を見渡して、
「じゃ一通り、御案内しましょう。」と、気軽く椅子《いす》から立ち上った。

        二十六

 三人が初めて案内された病室には、束髪《そくはつ》に結った令嬢が、熱心にオルガンを弾《ひ》いていた。オルガンの前には鉄格子《てつごうし》の窓があって、その窓から洩れて来る光が、冷やかに令嬢の細面《ほそおもて》を照らしていた。俊助《しゅんすけ》はこの病室の戸口に立って、窓の外を塞《ふさ》いでいる白椿《しろつばき》の花を眺めた時、何となく西洋の尼寺《あまでら》へでも行ったような心もちがした。
「これは長野のある資産家の御嬢さんですが、何でも縁談が調わなかったので、発狂したのだとか云う事です。」
「御可哀《おかわい》そうね。」
 辰子《たつこ》は細い声で、囁《ささや》くようにこう云った。が、初子《はつこ》は同情と云うよりも、むしろ好奇心に満ちた眼を輝かせて、じっと令嬢の横顔を見つめていた。
「オルガンだけは忘れないと見えるね。」
「オルガンばかりじゃない。この患者は画も描く。裁縫もする。字なんぞは殊に巧《たくみ》だ。」
 新田《にった》は俊助にこう云ってから、三人を戸口に残して置いて、静にオルガンの側へ歩み寄った。が、令嬢はまるでそれに気がつかないかのごとく、依然として鍵盤《けんばん》に指を走らせ続けていた。
「今日《こんにち》は。御気分はいかがです?」
 新田は二三度繰返して問いかけたが、令嬢はやはり窓の外の白椿と向い合ったまま、振返る気色《けしき》さえ見せなかった。のみならず、新田が軽く肩へ手をかけると、恐ろしい勢いでふり払いながら、それでも指だけは間違いなく、この病室の空気にふさわしい、陰鬱な曲を弾《ひ》きやめなかった。
 三人は一種の無気味《ぶきみ》さを感じて無言のまま、部屋を外へ退《しりぞ》いた。
「今日は御機嫌《ごきげん》が悪いようです。あれでも気が向くと、思いのほか愛嬌《あいきょう》のある女なんですが。」
 新田は令嬢の病室の戸をしめると、多少失望したらしい声を出したが、今度はそのすぐ前の部屋の戸を開けて、
「御覧なさい。」と、三人の客を麾《さしまね》いた。
 はいって見ると、そこは湯殿のように床《ゆか》を叩《たた》きにした部屋だった。その部屋のまん中には、壺《つぼ》を埋《い》けたような穴が三つあって、そのまた穴の上には、水道栓が蛇口《じゃぐち》を三つ揃えていた。しかもその穴の一つには、坊主頭《ぼうずあたま》の若い男が、カアキイ色の袋から首だけ出して、棒を立てたように入れてあった。
「これは患者の頭を冷《ひや》す所ですがね、ただじゃあばれる惧《おそれ》があるので、ああ云う風に袋へ入れて置くんです。」
 成程その男のはいっている穴では蛇口《じゃぐち》の水が細い滝になって、絶えず坊主頭の上へ流れ落ちていた。が、その男の青ざめた顔には、ただ空間を見つめている、どんよりした眼があるだけで、何の表情も浮んではいなかった。俊助は無気味を通り越して、不快な心もちに脅《おびや》かされ出した。
「これは残酷《ざんこく》だ。監獄の役人と癲狂院《てんきょういん》の医者とにゃ、なるもんじゃない。」
「君のような理想家が、昔は人体|解剖《かいぼう》を人道に悖《もと》ると云って攻撃したんだ。」
「あれで苦しくは無いんでしょうか。」
「無論、苦しいも苦しくないもないんです。」
 初子は眉一つ動かさずに、冷然と穴の中の男を見下《みおろ》していた。辰子は――ふと気がついた俊助が初子から眼を転じた時、もうその部屋の中にはいつの間にか、辰子の姿が見えなくなっていた。

        二十七

 俊助《しゅんすけ》は不快になっていた矢先だから、初子《はつこ》と新田《にった》とを後に残して、うす暗い廊下《ろうか》へ退却した。と、そこには辰子《たつこ》が、途方《とほう》に暮れたように、白い壁を背負って佇《たたず》んでいた。
「どうしたのです。気味が悪いんですか。」
 辰子は水々しい眼を挙げて、訴えるように俊助の顔を見た。
「いいえ、可哀《かわい》そうなの。」
 俊助は思わず微笑した。
「僕は不愉快です。」
「可哀そうだとは御思いにならなくって?」
「可哀そうかどうかわからないが――とにかくああ云う人間が、ああしているのを見たくないんです。」
「あの人の事は御考えにならないの。」
「それよりも先に、自分の事を考えるんです。」
 辰子の青白い頬には、あるかない微笑の影がさした。
「薄情な方ね。」
「薄情かも知れません。その代りに自分の関係している事なら――」
「御親切?」
 そこへ新田と初子とが出て来た。
「今度は――と、あちらの病室へ行って見ますか。」
 新田は辰子や俊助の存在を全く忘れてしまったように、さっさと二人の前を通り越して、遠い廊下のつき当りにある戸口の方へ歩き出した。が、初子は辰子の顔を見ると、心もち濃い眉《まゆ》をひそめて、
「どうしたの。顔の色が好くなくってよ。」
「そう。少し頭痛《ずつう》がするの。」
 辰子は低い声でこう答えながら、ちょいと掌《てのひら》を額に当てたが、すぐにいつものはっきりした声で、
「行きましょう。何でもないわ。」
 三人は皆別々の事を考えながら、前後してうす暗い廊下を歩き出した。
 やがて廊下のつき当りまで来ると、新田はその部屋の戸を開けて、後《うしろ》の三人を振返りながら、「御覧なさい」と云う手真似《てまね》をした。ここは柔道の道場を思わせる、広い畳敷の病室だった。そうしてその畳の上には、ざっと二十人近い女の患者が、一様に鼠《ねずみ》の棒縞の着物を着て雑然と群羊のごとく動いていた。俊助は高い天窓《てんまど》の光の下《もと》に、これらの狂人の一団を見渡した時、またさっきの不快な感じが、力強く蘇生《よみがえ》って来るのを意識した。
「皆仲良くしているわね。」
 初子は家畜《かちく》を見るような眼つきをしながら、隣に立っている辰子に囁いた。が、辰子は静に頷《うなず》いただけで、口へ出しては、何とも答えなかった。
「どうです。中へはいって見ますか。」
 新田は嘲るような微笑を浮べて、三人の顔を見廻した。
「僕は真《ま》っ平《ぴら》だ。」
「私も、もう沢山。」
 辰子はこう云って、今更のようにかすかな吐息を洩らした。
「あなたは?」
 初子は生々した血の気を頬《ほお》に漲らせて、媚《こ》びるようにじっと新田の顔を見た。
「私は見せて頂きますわ。」

        二十八

 俊助《しゅんすけ》と辰子《たつこ》とは、さっきの応接室へ引き返した。引き返して見ると、以前はささなかった日の光が、斜《ななめ》に窓硝子《まどガラス》を射透して、ピアノの脚に落ちていた。それからその日の光に蒸されたせいか、壺にさした薔薇《ばら》の花も、前よりは一層重苦しく、甘い※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にお》いを放っていた。最後にあの令嬢の弾《ひ》くオルガンが、まるでこの癲狂院《てんきょういん》の建物のつく吐息《といき》のように、時々廊下の向うから聞えて来た。
「あの御嬢さんは、まだ弾いていらっしゃるのね。」
 辰子はピアノの前に立ったまま、うっとりと眼を遠い所へ漂わせた。俊助は煙草へ火をつけながら、ピアノと向い合った長椅子《ながいす》へ、ぐったりと疲れた腰を下して、
「失恋したくらいで、気が違うものかな。」と、独り語のように呟《つぶや》いた。と、辰子は静に眼を俊助の顔へ移して、
「違わないと御思いになって?」
「さあ――僕は違いそうもありませんね。それよりあなたはどうです。」
「私《わたし》? 私はどうするでしょう。」
 辰子は誰に尋ねるともなくこう云ったが、急に青白い頬に血の色がさすと、眼を白足袋《しろたび》の上に落して、
「わからないわ。」と小さな声を出した。
 俊助は金口《きんぐち》を啣《くわ》えたまま、しばらくはただ黙然《もくねん》と辰子の姿を眺めていたが、やがてわざと軽い調子で、
「御安心なさい。あんたなんぞは失恋するような事はないから。その代り――」
 辰子はまた静に眼を挙げて俊助の眉の間を見た。
「その代り?」
「失恋させるかも知れません。」
 俊助は冗談のように云った言葉が、案外|真面目《まじめ》な調子を帯びていたのに気がついた。と同時に真面目なだけ、それだけ厭味なのを恥しく思った。
「そんな事を。」
 辰子はすぐに眼を伏せたが、やがて俊助の方へ後《うしろ》を向けると、そっとピアノの蓋を開けて、まるで二人をとりまいた、薔薇《ばら》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]いのする沈黙を追い払おうとするように、二つ三つ鍵盤《けんばん》を打った。それは打つ指に力がないのか、いずれも音とは思われないほど、かすかな音を響かせたのに過ぎなかった。が、俊助はその音を聞くと共に、日頃彼の軽蔑《けいべつ》する感傷主義《センティメンタリズム》が、彼自身をもすんでの事に捕えようとしていたのを意識した。この意識は勿論彼にとって、危険の意識には相違なかった。けれども彼の心には、その危険を免《まぬか》れたと云う、満足らしいものはさらになかった。
 しばらくして初子《はつこ》が新田《にった》と一しょに、
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