た。が、そのためにわざわざ席を離れるのは、面倒でもあるし、莫迦莫迦《ばかばか》しくもあった。そこで万年筆へインクを吸わせながら、いささか腰を擡《もた》げ兼ねていると、哲学概論を担当している、有名なL教授が、黒い鞄を小脇に抱えて、のそのそ外からはいって来てしまった。
 L教授は哲学者と云うよりも、むしろ実業家らしい風采を備えていた。それがその日のように、流行の茶の背広を一着して、金の指環《ゆびわ》をはめた手を動かしながら、鞄の中の草稿を取り出したりなどしていると、殊に講壇よりは事務机の後《うしろ》に立たせて見たいような心もちがした。が、講義は教授の風采とは没交渉に、その面倒なカント哲学の範疇《カテゴリイ》の議論から始められた。俊助は専門の英文学の講義よりも、反《かえ》って哲学や美学の講義に忠実な学生だったから、ざっと二時間ばかりの間、熱心に万年筆を動かして、手際《てぎわ》よくノオトを取って行った。それでも合《あ》い間《ま》毎に顔を挙げて、これは煩杖をついたまま、滅多にペンを使わないらしい大井の後姿を眺めると、時々昨夜以来の不思議な気分が、カントと彼との間へ靄《もや》のように流れこんで来るのを感ぜずにはいられなかった。
 だからやがて講義がすんで、机を埋《うず》めていた学生たちがぞろぞろ講堂の外へ流れ出すと、彼は入口の石段の上に足を止めて、後から来る大井と一しょになった。大井は相不変《あいかわらず》ノオト・ブックのはみ出した懐《ふところ》へ、無精《ぶしょう》らしく両手を突込んでいたが、俊助の顔を見るなりにやにや笑い出して、
「どうした。この間の晩の美人たちは健在か。」と、逆に冷評を浴びせかけた。
 二人のまわりには大勢の学生たちが、狭い入口から両側の石段へ、しっきりなく溢《あふ》れ出していた。俊助は苦笑《くしょう》を漏《もら》したまま、大井の言葉には答えないで、ずんずんその石段の一つを下りて行った。そうしてそこに芽を吹いている欅《けやき》の並木の下へ出ると、始めて大井の方を振り返って、
「君は気がつかなかったか、昨夜《ゆうべ》東京駅で遇ったのを。」と、探りの一句を投げこんで見た。

        二十二

「へええ、東京駅で?」
 大井《おおい》は狼狽《ろうばい》したと云うよりも、むしろ決断に迷ったような眼つきをして、狡猾《ずる》そうにちらりと俊助《しゅんすけ》の顔を窺《うかが》った。が、その眼が俊助の冷やかな視線に刎返《はねかえ》されると、彼は急に悪びれない態度で、
「そうか。僕はちっとも気がつかなかった。」と白状した。
「しかも美人が見送りに来ていたじゃないか。」
 勢《いきお》いに乗った俊助は、もう一度|際《きわ》どい鎌をかけた。けれども大井は存外平然と、薄笑《うすわらい》を唇に浮べながら、
「美人か――ありゃ僕の――まあ好いや。」と、思わせぶりな返事に韜晦《とうかい》してしまった。
「一体どこへ行ったんだ?」
「ありゃ僕の――」に辟易《へきえき》した俊助は、今度は全く技巧を捨てて、正面から大井を追窮した。
「国府津《こうづ》まで。」
「それから?」
「それからすぐに引返した。」
「どうして?」
「どうしてったって、――いずれ然るべき事情があってさ。」
 この時|丁子《ちょうじ》の花の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》が、甘たるく二人の鼻を打った。二人ともほとんど同時に顔を挙げて見ると、いつかもうディッキンソンの銅像の前にさしかかる所だった。丁子は銅像をめぐった芝生の上に、麗《うら》らかな日の光を浴びて、簇々《ぞくぞく》とうす紫の花を綴っていた。
「だからさ、その然るべき事情とは抑《そもそ》も何だと尋《き》いているんだ。」
 と、大井は愉快そうに、大きな声で笑い出した。
「つまらん事を心配する男だな。然るべき事情と云ったら、要するに然るべき事情じゃないか。」
 が、俊助も二度目には、容易に目つぶしを食わされなかった。
「いくら然るべき事情があったって、ちょいと国府津《こうづ》まで行くだけなら、何も手巾《ハンケチ》まで振らなくったって好さそうなもんじゃないか。」
 するとさすがに大井の顔にも、瞬《またた》く間《ま》周章《しゅうしょう》したらしい気色《けしき》が漲った。けれども口調《くちょう》だけは相不変《あいかわらず》傲然と、
「これまた別に然るべき事情があって振ったのさ。」
 俊助は相手のたじろいだ虚につけ入って、さらに調戯《からか》うような悪問《わるど》いの歩を進めようとした。が、大井は早くも形勢の非になったのを覚ったと見えて、正門の前から続いている銀杏《いちょう》の並木の下へ出ると、
「君はどこへ行く? 帰るか。じゃ失敬。僕は図書館へ寄って行くから。」と、巧に俊助を抛り出して、さっさと向うへ行ってしまった。
 俊助はその後を見送りながら、思わず苦笑《くしょう》を洩《もら》したが、この上追っかけて行ってまでも、泥を吐かせようと云う興味もないので、正門を出るとまっすぐに電車通りを隔てている郁文堂《いくぶんどう》の店へ行った。ところがそこへ足を入れると、うす暗い店の奥に立って、古本を探していた男が一人、静に彼の方へ向き直って、
「安田《やすだ》さん。しばらく。」と、優しい声をかけた。

        二十三

 ほとんど常に夕暮の様な店の奥の乏しい光も、まっ赤な土耳其帽《トルコぼう》を頂いた藤沢《ふじさわ》を見分けるには十分だった。俊助《しゅんすけ》は答礼の帽を脱ぎながら、埃臭《ほこりくさ》い周囲の古本と相手のけばけばしい服装との間に、不思議な対照を感ぜずにはいられなかった。
 藤沢は大英百科全書の棚《たな》に華奢《きゃしゃ》な片手をかけながら、艶《なまめ》かしいとも形容すべき微笑を顔中に漂わせて、
「大井《おおい》さんには毎日御会いですか。」
「ええ、今も一しょに講義を聴いて来たところです。」
「僕はあの晩以来、一度も御目にかからないんですが――」
 俊助は近藤《こんどう》と大井との間の確執《かくしつ》が、同じく『城』同人《どうじん》と云う関係上、藤沢もその渦中へ捲きこんだのだろうと想像した。が、藤沢はそう思われる事を避けたいのか、いよいよ優しい声を出して、
「僕の方からは二三度下宿へ行ったんですけれど、生憎《あいにく》いつも留守《るす》ばかりで――何しろ大井さんはあの通り、評判のドン・ジュアンですから、その方で暇がないのかも知れませんがね。」
 大学へはいって以来、初めて大井を知った俊助は、今日《きょう》まであの黒木綿の紋附にそんな脂粉《しふん》の気が纏綿《てんめん》していようとは、夢にも思いがけなかった。そこで思わず驚いた声を出しながら、
「へええ、あれで道楽者ですか。」
「さあ、道楽者かどうですか――とにかく女はよく征服する人ですよ。そう云う点にかけちゃ高等学校時代から、ずっと我々の先輩でした。」
 その瞬間俊助の頭の中には、昨夜《さくや》汽車の窓で手巾《ハンケチ》を振っていた大井の姿が、ありありと浮び上って来た。と同時にやはり藤沢が、何か大井に含む所があって、好《い》い加減に中傷の毒舌を弄しているのではないかとも思った。が、次の瞬間に藤沢はちょいと首を曲げて、媚《こ》びるような微笑を送りながら、
「何でも最近はどこかのレストランの給仕と大へん仲が好くなっているそうです。御同様|羨望《せんぼう》に堪えない次第ですがね。」
 俊助は藤沢がこう云う話を、むしろ大井の名誉のために弁じているのだと云う事に気がついた。それと共に、頭の中の大井の姿は、いよいよその振っている手巾《ハンケチ》から、濃厚に若い女性の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を放散せずにはすまさなかった。
「そりゃ盛《さかん》ですね。」
「盛ですとも。ですから僕になんぞ会っている暇がないのも、重々無理はないんです。おまけに僕の行く用向きと云うのが、あの精養軒《せいようけん》の音楽会の切符の御金を貰いに行くんですからね。」
 藤沢はこう云いながら、手近の帳場机にある紙表紙の古本をとり上げたが、所々《ところどころ》好い加減に頁を繰ると、すぐに俊助の方へ表紙を見せて、
「これも花房《はなぶさ》さんが売ったんですね。」
 俊助は自然微笑が唇《くちびる》に上って来るのを意識した。
「梵字《サンスクリット》の本ですね。」
「ええ、マハアバラタか何からしいですよ。」

        二十四

「安田《やすだ》さん、御客様でございますよ。」
 こう云う女中の声が聞えた時、もう制服に着換えていた俊助《しゅんすけ》は[#「は」は底本では「はは」]、よしとか何とか曖昧《あいまい》な返事をして置いて、それからわざと元気よく、梯子段《はしごだん》を踏み鳴しながら、階下《した》へ行った。行って見ると、玄関の格子《こうし》の中には、真中《まんなか》から髪を割って、柄の長い紫のパラソルを持った初子《はつこ》が、いつもよりは一層|溌剌《はつらつ》と外光に背《そむ》いて佇《たたず》んでいた。俊助は閾《しきい》の上に立ったまま、眩しいような感じに脅《おびや》かされて、
「あなた御一人?」と尋ねて見た。
「いいえ、辰子《たつこ》さんも。」
 初子は身を斜《ななめ》にして、透《すか》すように格子の外を見た。格子の外には、一間に足らない御影《みかげ》の敷石があって、そのまた敷石のすぐ外には、好い加減古びたくぐり門があった。初子の視線を追った俊助は、そのくぐり門の戸を開け放した向うに、見覚えのある紺と藍との竪縞《たてじま》の着物が、日の光を袂《たもと》に揺《ゆす》りながら、立っているのを発見した。
「ちょいと上って、御茶でも飲んで行きませんか。」
「難有《ありがと》うございますけれど――」
 初子は嫣然《えんぜん》と笑いながら、もう一度眼を格子の外へやった。
「そうですか。じゃすぐに御伴《おとも》しましょう。」
「始終御迷惑ばかりかけますのね。」
「何、どうせ今日は遊んでいる体なんです。」
 俊助は手ばしこく編上《あみあげ》の紐をからげると外套を腕にかけたまま、無造作《むぞうさ》に角帽を片手に掴《つか》んで、初子の後《あと》からくぐり門の戸をくぐった。
 初子のと同じ紫のパラソルを持って、外に待っていた辰子は、俊助の姿を見ると、しなやかな手を膝に揃えて、叮嚀に黙礼の頭《かしら》を下げた。俊助はほとんど冷淡に会釈《えしゃく》を返した。返しながら、その冷淡なのがあるいは辰子に不快な印象を与えはしないだろうかと気づかった。と同時にまた初子の眼には、それでもまだ彼の心中を裏切るべき優しさがありはしまいかとも思った。が、初子は二人の応対《おうたい》には頓着なく、斜《ななめ》に紫のパラソルを開きながら、
「電車は? 正門前《せいもんまえ》から御乗りになって。」
「ええ、あちらの方が近いでしょう。」
 三人は狭い往来を歩き出した。
「辰子さんはね、どうしても今日はいらっしゃらないって仰有《おっしゃ》ったのよ。」
 俊助は「そうですか?」と云う眼をして、隣に歩いている辰子を見た。辰子の顔には、薄く白粉《おしろい》を刷《は》いた上に、紫のパラソルの反映がほんのりと影を落していた。
「だって、私、気の違っている人なんぞの所へ行くのは、気味が悪いんですもの。」
「私は平気。」
 初子はくるりとパラソルを廻しながら、
「時々気違いになって見たいと思う事もあるわ。」
「まあ、いやな方ね。どうして?」
「そうしたら、こうやって生きているより、もっといろいろ変った事がありそうな気がするの。あなたそう思わなくって?」
「私? 私は変った事なんぞなくったって好いわ。もうこれで沢山。」

        二十五

 新田《にった》はまず三人の客を病院の応接室へ案内した。そこはこの種の建物には珍しく、窓掛、絨氈《じゅうたん》、ピアノ、油絵などで、甚しい不調和もなく装飾されていた。しかもそのピアノの上には、季節にはまだ早すぎる薔薇《ばら》の花が、無造作《むぞうさ》に手頃な青銅の
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