ゥのごとく、野村は安楽椅子の肘を叩きながら、
「初子さん一人なら、そりゃ君の辟易《へきえき》するのも無理はないが、辰子さんも多分――いや、きっと一しょに行くって云っていたから、その辺の心配はいらないんだがね。」
 俊助は紅茶茶碗を掌《てのひら》に載せたまま、しばらくの間考えた。行く行かないの問題を考えるのか、一度断った依頼をまた引受けるために、然るべき口実を考えるのか――それも彼には判然しないような心もちがした。
「そりゃ行っても好《い》いが。」
 彼は現金すぎる彼自身を恥じながら、こう云った後で、追いかけるように言葉を添えずにはいられなかった。
「そうすりゃ、久しぶりで新田《にった》にも会えるから。」
「やれ、やれ、これでやっと安心した。」
 野村はさもほっとしたらしく、胸の釦《ボタン》を二つ三つ外すと、始めて紅茶茶碗を口へつけた。

        十八

「日《ひ》はア。」
 俊助《しゅんすけ》の眼はまだ野村《のむら》よりも、掌《てのひら》の紅茶茶碗へ止まり易かった。
「来週の水曜日――午後からと云う事になっているんだが、君の都合が悪るけりゃ、月曜か金曜に繰変えても好い。」
「何、水曜なら、ちょうど僕の方も講義のない日だ。それで――と、栗原《くりはら》さんへは僕の方から出かけて行くのか。」
 野村は相手の眉《まゆ》の間にある、思い切りの悪い表情を見落さなかった。
「いや、向うからここへ来て貰おう。第一その方が道順《みちじゅん》だから。」
 俊助は黙って頷《うなず》いたまま、しばらく閑却《かんきゃく》されていた埃及煙草《エジプトたばこ》へ火をつけた。それから始めてのびのびと椅子《いす》の背に頭を靠《もた》せながら、
「君はもう卒業論文へとりかかったのか。」と、全く別な方面へ話題を開拓した。
「本だけはぽつぽつ読んでいるが――いつになったら考えが纏《まとま》るか、自分でもちょいと見当がつかない。殊にこの頃のように俗用多端じゃ――」
 こう云いかけた野村の眼には、また冷評《ひやか》されはしないかと云う懸念《けねん》があった。が、俊助は案外|真面目《まじめ》な調子で、
「多端――と云うと?」と問い返した。
「君にはまだ話さなかったかな。僕の母が今は国にいるが、僕でも大学を卒業したら、こちらへ出て来て、一しょになろうと云うんでね。それにゃ国の田地《でんじ》や何かも整理しなけりゃならないから、今度はまあ親父《おやじ》の年忌《ねんき》を兼ねて、その面倒も見に行く心算《つもり》なんだ。どうもこう云う問題になると、中々哲学史の一冊も読むような、簡単な訳にゃ行かないんだから困る。」
「そりゃそうだろう。殊に君のような性格の人間にゃ――」
 俊助は同じ東京の高等学校で机を並べていた関係から、何かにつけて野村一家の立ち入った家庭の事情などを、聞かせられる機会が多かった。野村家と云えば四国の南部では、有名な旧家の一つだと云う事、彼の父が政党に関係して以来、多少は家産が傾いたが、それでも猶《なお》近郷《きんごう》では屈指の分限者《ぶげんじゃ》に相違ないと云う事、初子の父の栗原は彼の母の異腹《はらちがい》の弟で、政治家として今日の位置に漕《こぎ》つけるまでには、一方《ひとかた》ならず野村の父の世話になっていると云う事、その父の歿後どこかから妾腹《しょうふく》の子と名乗る女が出て来て、一時は面倒な訴訟《そしょう》沙汰にさえなった事があると云う事――そう云ういろいろな消息に通じている俊助は、今また野村の帰郷を必要としている背後にも、どれほど複雑な問題が蟠《わだか》まっているか、略《ほぼ》想像出来るような心もちがした。
「まず当分はシュライエルマッヘルどころの騒ぎじゃなさそうだ。」
「シュライエルマッヘル?」
「僕の卒業論文さ。」
 野村は気のなさそうな声を出すと、ぐったり五分刈の頭を下げて、自分の手足を眺めていたが、やがて元気を恢復したらしく、胸の金釦《きんボタン》をかけ直して、
「もうそろそろ出かけなくっちゃ。――じゃ癲狂院《てんきょういん》行きの一件は、何分よろしく取計らってくれ給え。」

        十九

 野村《のむら》が止めるのも聞かず、俊助《しゅんすけ》は鳥打帽にインバネスをひっかけて、彼と一しょに森川町の下宿を出た。幸《さいわい》とうに風が落ちて、往来には春寒い日の暮が、うす明《あかる》くアスファルトの上を流れていた。
 二人は電車で中央停車場へ行った。野村の下げていた鞄《かばん》を赤帽に渡して、もう電燈のともっている二等待合室へ行って見ると、壁の上の時計の針が、まだ発車の時刻には大分遠い所を指していた。俊助は立ったまま、ちょいと顎《あご》をその針の方へしゃくって見せた。
「どうだ、晩飯を食って行っては。」
「そうさな。それも悪くはない。」
 野村は制服の隠しから時計を出して、壁の上のと見比べていたが、
「じゃ君は向うで待っていてくれ給え。僕は先へ切符を買って来るから。」
 俊助は独りで待合室の側の食堂へ行った。食堂はほとんど満員だった。それでも彼が入口に立って、逡巡《しゅんじゅん》の視線を漂わせていると、気の利《き》いた給仕が一人、すぐに手近の卓子《テエブル》に空席があるのを教えてくれた。が、その卓子《テエブル》には、すでに実業家らしい夫婦づれが、向い合ってフオクを動かしていた。彼は西洋風に遠慮したいと思ったが、ほかに腰を下《おろ》す所がないので、やむを得ずそこへ連《つらな》らせて貰う事にした。もっとも相手の夫婦づれは、格別迷惑らしい容子《ようす》もなく、一輪《いちりん》挿《ざ》しの桜を隔てながら、大阪弁で頻《しきり》に饒舌《しゃべ》っていた。
 給仕が註文を聞いて行くと、間もなく野村が夕刊を二三枚つかんで、忙しそうにはいって来た。彼は俊助に声をかけられて、やっと相手の居場所に気がつくと、これは隣席の夫婦づれにも頓着なく、無造作《むぞうさ》に椅子をひき寄せて、
「今、切符を買っていたら、大井《おおい》君によく似た人を見かけたが、まさか先生じゃあるまいな。」
「大井だって、停車場へ来ないとは限らないさ。」
「いや、何でも女づれらしかったから。」
 そこへスウプが来た。二人はそれぎり大井を閑却《かんきゃく》して、嵐山《あらしやま》の桜はまだ早かろうの、瀬戸内《せとうち》の汽船は面白かろうのと、春めいた旅の話へ乗り換えてしまった。するとその内に、野村が皿の変るのを待ちながら、急に思い出したと云う調子で、
「今|初子《はつこ》さんの所へ例の件を電話でそう云って置いた。」
「じゃ今日は誰も送りに来ないか。」
「来るものか。何故《なぜ》?」
 何故と尋《き》かれると、俊助も返事に窮するよりほかはなかった。
「栗原へは今朝《けさ》手紙を出すまで、国へ帰るとも何とも云っちゃなかったんだから――その手紙も電話で聞くと、もう少しさっき届いたばかりだそうだ。」
 野村はまるで送りに来ない初子のために、弁解の労を執《と》るような口調だった。
「そうか。道理で今日|辰子《たつこ》さんに遇《あ》ったが何ともそう云う話は聞かなかった。」
「辰子さんに遇った? いつ?」
「午《ひる》すぎに電車の中で。」
 俊助はこう答えながら、さっき下宿で辰子の話が出たにも関らず、何故今までこんな事を黙っていたのだろうと考えた。が、それは彼自身にも偶然か故意か、判断がつけられなかった。

        二十

 プラットフォオムの上には例のごとく、見送りの人影が群《むらが》っていた。そうしてそれが絶えず蠢《うごめ》いている上に、電燈のともった列車の窓が、一つずつ明《あかる》く切り抜かれていた。野村《のむら》もその窓から首を出して、外に立っている俊助《しゅんすけ》と、二言《ふたこと》三言《みこと》落着かない言葉を交換した。彼等は二人とも、周囲の群衆の気もちに影響されて、発車が待遠いような、待遠くないような、一種の慌《あわただ》しさを感じずにはいられなかった。殊に俊助は話が途切れると、ほとんど敵意があるような眼で、左右の人影を眺めながら、もどかしそうに下駄《げた》の底を鳴らしていた。
 その内にやっと発車の電鈴《ベル》が響いた。
「じゃ行って来給え。」
 俊助は鳥打帽の庇《ひさし》へ手をかけた。
「失敬、例の一件は何分よろしく願います。」と、野村はいつになく、改まった口調で挨拶した。
 汽車はすぐに動き出した。俊助はいつまでもプラットフォオムに立って、次第に遠ざかって行く野村を見送るほど、感傷癖に囚われてはいなかった。だから彼はもう一度鳥打帽の庇へ手をかけると、未練なくあたりの人影に交って、入口の階段の方へ歩き出した。
 が、その時、ふと彼の前を通りすぎる汽車の窓が眼にはいると、思いがけずそこには大井篤夫《おおいあつお》が、マントの肘《ひじ》を窓枠に靠《もた》せながら、手巾《ハンケチ》を振っているのが見えた。俊助は思わず足を止めた。と同時にさっき大井を見かけたと云う野村の言葉を思い出した。けれども大井は俊助の姿に気がつかなかったものと見えて、見る見る汽車の窓と共に遠くなりながらも、頻《しきり》に手巾《ハンケチ》を振り続けていた。俊助は狐《きつね》につままれたような気がして、茫然とその後を見送るよりほかはなかった。
 が、この衝動《ショック》から恢復した時、俊助の心は何よりも、その手巾《ハンケチ》の閃きに応ずべき相手を物色するのに忙しかった。彼はインバネスの肩を聳かせて、前後左右に雪崩《なだ》れ出した見送り人の中へ視線を飛ばした。勿論彼の頭の中には、女づれのようだったと云う野村の言葉が残っていた。しかしそれらしい女の姿を、いくら探しても見当らなかった。と云うよりもそれらしい女が、いつも人影の間にうろうろしていた。そうしてその代りどれが本当の相手だか、さらに判別がつかなかった。彼はとうとう物色を断念しなければならなかった。
 中央停車場の外へ出て、丸の内の大きな星月夜《ほしづきよ》を仰いだ時も、俊助はまださっきの不思議な心もちから、全く自由にはなっていなかった。彼には大井がその汽車へ乗り合せていたと云う事より、汽車の窓で手巾を振っていたと云う事が、滑稽なくらい矛盾《むじゅん》な感を与えるものだった。あの悪辣《あくらつ》な人間を以て自他共に許している大井篤夫が、どうしてあんな芝居じみた真似をしていたのだろう。あるいは人が悪いのは附焼刃《つけやきば》で、実は存外正直な感傷主義者《センティメンタリスト》が正体かも知れない。――俊助はいろいろな臆測《おくそく》の間《あいだ》に迷いながら、新開地のような広い道路を、濠側《ほりばた》まで行って電車に乗った。
 ところが翌日大学へ行くと、彼は純文科に共通な哲学概論の教室で、昨夜七時の急行へ乗った筈の大井と、また思いがけなく顔を合せた。

        二十一

 その日|俊助《しゅんすけ》は、いつよりもやや出席が遅れたので、講壇をめぐった聴講席の中でも、一番|後《うしろ》の机に坐らなければならなかった。所がそこへ坐って見ると、なぞえに向うへ低くなった二三列前の机に、見慣れた黒木綿の紋附が、澄まして頬杖をついていた。俊助はおやと思った。それから昨夜《さくや》中央停車場で見かけたのは、大井篤夫《おおいあつお》じゃなかったのかしらと思った。が、すぐにまた、いや、やはり大井に違いなかったと思い返した。そうしたら、彼が手巾《ハンケチ》を振っているのを見た時よりも、一層狐につままれたような心もちになった。
 その内に大井は何かの拍子《ひょうし》に、ぐるりとこちらへ振返った。顔を見ると、例のごとく傲岸不遜《ごうがんふそん》な表情があった。俊助は当然なるべきこの表情を妙にもの珍しく感じながら、「やあ」と云う挨拶《あいさつ》を眼で送った。と、大井も黒木綿《くろもめん》の紋附の肩越に、顎《あご》でちょいと会釈《えしゃく》をしたが、それなりまた向うを向いて、隣にいた制服の学生と、何か話をし始めたらしかった。俊助は急に昨夜の一件を確かめたい気が強くなって
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