闖ホったりしていた。彼はこう云う周囲に身を置きながら、癲狂院《てんきょういん》の応接室を領していた、懶《ものう》い午後の沈黙を思った。室咲《むろざ》きの薔薇《ばら》、窓からさす日の光、かすかなピアノの響、伏目になった辰子の姿――ポオト・ワインに暖められた心には、そう云う快い所が、代る代る浮んだり消えたりした。が、やがて給仕女が一人、紅茶を持って来たのに気がついて、何気《なにげ》なく眼を林檎から離すと、ちょうど入口の硝子戸が開《あ》いた所で、しかもその入口には、黒いマントを着た大井篤夫《おおいあつお》が、燈火《ともしび》の多い外の夜から、のっそりはいって来る所だった。
「おい。」
 俊助は思わず声をかけた。と、大井は驚いた視線を挙げて、煙草の煙の立ちこめている珈琲店《カッフェ》の中を見廻したが、すぐに俊助の顔を見つけると、
「やあ、妙な所へ来ているな。」と云いながら、彼の卓子《テエブル》の向うへ歩み寄って、マントも脱がずに腰を下した。
「君こそ妙な所が御馴染《おなじみ》じゃないか。」
 俊助はこう冷評《ひやか》しながら、大井に愛想《あいそ》を売っている給仕女を一瞥《いちべつ》した。
「僕
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