梵レ室へ姿を現した時、俊助はいつもより快活に、
「どうでした。初子さん。モデルになるような患者が見つかりましたか。」と声をかけた。
「ええ、御蔭様で。」
初子は新田と俊助とに、等分の愛嬌《あいきょう》をふり撒《ま》きながら、
「ほんとうに私《わたし》ためになりましたわ。辰子さんもいらっしゃれば好《い》いのに。そりゃ可哀そうな人がいてよ。いつでも、御腹《おなか》に子供がいると思っているんですって。たった一人、隅の方へ坐って、子守唄《こもりうた》ばかり歌っているの。」
二十九
初子が辰子と話している間に、新田はちょいと俊助《しゅんすけ》の肩を叩くと、
「おい、君に一つ見せてやる物がある。」と云って、それから女たちの方へ向きながら、
「あなた方はここで、しばらく御休みになって下さい。今、御茶でも差上げますから。」
俊助は新田の云う通り、おとなしくその後《あと》について、明るい応接室からうす暗い廊下《ろうか》へ出ると、今度はさっきと反対の方向にある、広い畳敷の病室へつれて行かれた。するとここにも向うと同じように、鼠《ねずみ》の棒縞を着た男の患者が、二十人近くもごろごろしていた。しかもそのまん中には、髪をまん中から分けた若い男が、口を開《あ》いて、涎《よだれ》を垂らして、両手を翼《つばさ》のように動かしながら、怪しげな踊を踊っていた。新田は俊助をひっぱって、遠慮なくその連中の間へはいって行ったが、やがて膝を抱いて坐っていた、一人の老人をつかまえると、
「どうだね。何か変った事はないかい。」と、もっともらしく問いかけた。
「ございますよ。何でも今月の末までには、また磐梯山《ばんだいさん》が破裂するそうで、――昨晩《さくばん》もその御相談に、神々が上野《うえの》へ御集りになったようでございました。」
老人は目脂《めやに》だらけの眼を見張って、囁くようにこう云った。が、新田はその答には頓着《とんちゃく》する気色《けしき》もなく、俊助の方を振返って、
「どうだ。」と、嘲るような声を出した。
俊助は微笑を洩したばかりで、何ともその「どうだ」には答えなかった。と、新田はまた一人、これはニッケルの眼鏡をかけた、癇《かん》の強そうな男の前へ行って、
「いよいよ講和条約の調印もすんだようだね。君もこれからは暇になるだろう。」
が、その男は陰鬱な眼を挙げて、じろりと新田の顔を見ながら、
「とても暇にはなりませんよ。クレマンソオはどうしても、僕の辞職を聴許《ちょうきょ》してくれませんからね。」
新田は俊助と顔を見合せたが、そこに漂っている微笑を認めると、また黙然《もくねん》と病室の隅へ歩を移して、さっきからじっと二人を見つめていた、品の好《い》い半白の男に声をかけた。
「どうした。まだ細君は帰って来ないかね。」
「それがですよ。妻《さい》の方じゃ帰りたがっているんですが、――」
その患者《かんじゃ》はこう云いかけて、急に疑わしそうな眼を俊助へ向けると、気味の悪いほど真剣な調子になって、
「先生、あなたは大変な人を伴《つ》れて御出でなすった。こりゃあの評判の女たらしですぜ。私の妻《さい》をひっかけた――」
「そうか。じゃ早速僕から、警察へ引き渡してやろう。」
新田は無造作《むぞうさ》に調子を合わすと、三度《みたび》俊助の方へ振り返って、
「君、この連中が死んだ後で、脳髄《のうずい》を出して見るとね、うす赤い皺の重なり合った上に、まるで卵の白味《しろみ》のような物が、ほんの指先ほど、かかっているんだよ。」
「そうかね。」
俊助は依然として微笑をやめなかった。
「つまり磐梯山《ばんだいさん》の爆発も、クレマンソオへ出した辞職届も、女たらしの大学生も、皆その白味のような物から出て来るんだ、我々の思想や感情だって――まあ、他は推して知るべしだね。」
新田は前後左右に蠢《うごめ》いている鼠の棒縞を見廻しながら、誰にと云う事もなく、喧嘩を吹きかけるような手真似をした。
三十
初子《はつこ》と辰子《たつこ》とを載せた上野行《うえのゆき》の電車は、半面に春の夕日を帯びて、静に停留場《ていりゅうば》から動き出した。俊助《しゅんすけ》はちょいと角帽《かくぼう》をとって、窓の内の吊皮《つりかわ》にすがっている二人の女に会釈《えしゃく》をした。女は二人とも微笑していた。が、殊に辰子の眼は、微笑の中《うち》にも憂鬱な光を湛えて、じっと彼の顔に注がれているような心もちがした。彼の心には刹那《せつな》の間、あの古ぼけた教室の玄関に、雨止《あまや》みを待っていた彼女の姿が、稲妻《いなずま》のように閃いた。と思うと、電車はもう速力を早めて、窓の内の二人の姿も、見る見る彼の眼界を離れてしまった。
その後を見送った俊助は、まだ一種の
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