サ奮が心に燃えているのを意識していた。彼はこのまま、本郷行《ほんごうゆき》の電車へ乗って、索漠《さくばく》たる下宿の二階へ帰って行くのに忍びなかった。そこで彼は夕日の中を、本郷とは全く反対な方向へ、好い加減にぶらぶら歩き出した。賑かな往来は日暮《ひぐれ》が近づくのに従って、一層人通りが多かった。のみならず、飾窓《ショウウインドウ》の中にも、アスファルトの上にも、あるいはまた並木の梢《こずえ》にも、至る所に春めいた空気が動いていた。それは現在の彼の気もちを直下《じきげ》に放出したような外界だった。だから町を歩いて行く彼の心には、夕日の光を受けながら、しかも夕日の色に染まっていない、頭の上の空のような、微妙な喜びが流れていた。………
その空が全く暗くなった頃、彼はその通りのある珈琲店《カッフェ》で、食後の林檎《りんご》を剥《む》いていた。彼の前には硝子《ガラス》の一輪挿しに、百合《ゆり》の造花が挿してあった。彼の後では自働ピアノが、しっきりなくカルメンを鳴らしていた。彼の左右には幾組もの客が、白い大理石の卓子《テエブル》を囲みながら、綺麗《きれい》に化粧した給仕女と盛に饒舌《しゃべ》ったり笑ったりしていた。彼はこう云う周囲に身を置きながら、癲狂院《てんきょういん》の応接室を領していた、懶《ものう》い午後の沈黙を思った。室咲《むろざ》きの薔薇《ばら》、窓からさす日の光、かすかなピアノの響、伏目になった辰子の姿――ポオト・ワインに暖められた心には、そう云う快い所が、代る代る浮んだり消えたりした。が、やがて給仕女が一人、紅茶を持って来たのに気がついて、何気《なにげ》なく眼を林檎から離すと、ちょうど入口の硝子戸が開《あ》いた所で、しかもその入口には、黒いマントを着た大井篤夫《おおいあつお》が、燈火《ともしび》の多い外の夜から、のっそりはいって来る所だった。
「おい。」
俊助は思わず声をかけた。と、大井は驚いた視線を挙げて、煙草の煙の立ちこめている珈琲店《カッフェ》の中を見廻したが、すぐに俊助の顔を見つけると、
「やあ、妙な所へ来ているな。」と云いながら、彼の卓子《テエブル》の向うへ歩み寄って、マントも脱がずに腰を下した。
「君こそ妙な所が御馴染《おなじみ》じゃないか。」
俊助はこう冷評《ひやか》しながら、大井に愛想《あいそ》を売っている給仕女を一瞥《いちべつ》した。
「僕はボヘミヤンだ。君のようなエピキュリアンじゃない。到る処の珈琲店《カッフェ》、酒場《バア》、ないしは下《くだ》って縄暖簾《なわのれん》の類《たぐい》まで、ことごとく僕の御馴染《おなじみ》なんだ。」
大井はもうどこかで一杯やって来たと見えて、まっ赤に顔を火照《ほて》らせながら、こんな下らない気焔を挙げた。
三十一
「但し御馴染《おなじみ》だって、借のある所にゃ近づかないがね。」
大井《おおい》は急に調子を下げて、嘲笑《あざわら》うような表情をしたが、やがて帳場机の方へ半身を※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ね》じ向けると、
「おい、ウイスキイを一杯。」と、横柄《おうへい》な声で命令した。
「じゃ、至る所、近づけなかないか。」
「莫迦《ばか》にするな。こう見えたって――少くとも、この家《うち》へは来ているじゃないか。」
この時給仕女の中でも、一番背の低い、一番子供らしいのがウイスキイのコップを西洋盆《サルヴァ》へ載せて、大事そうに二人の所へ持って来た。それは括《くく》り頤《あご》の、眼の大きい、白粉《おしろい》の下に琥珀色《こはくいろ》の皮膚《ひふ》が透《す》いて見える、健康そうな娘だった。俊助《しゅんすけ》はその給仕女がそっと大井の顔へ親しみのある眼《ま》なざしを送りながら、盛りこぼれそうなウイスキイのコップを卓子《テエブル》の上へ移した時、二三日前に郁文堂《いくぶんどう》であの土耳其帽《トルコぼう》の藤沢《ふじさわ》が話して聞かせた、最近の大井の情事なるものを思い出さずにはいられなかった。と、果して大井も臆面《おくめん》なく、その給仕女の方へまっ赤になった顔を向けると、
「そんなにすますなよ。僕が来て嬉しかったら、遠慮なく嬉しそうな顔をするが好いぜ。こりゃ僕の親友でね、安田《やすだ》と云う貴族なんだ。もっとも貴族と云ったって、爵位なんぞがある訳じゃない。ただ僕よりゃ少し金があるだけの違いなんだ。――僕の未来の細君、お藤《ふじ》さん。ここの家じゃ、まず第一の美人だね。もし今度また君が来たら、この人にゃ特別に沢山ティップを置いて行ってくれ。」
俊助は煙草に火をつけながら、微笑するよりほかはなかった。が、娘はこの種類の女には珍しい、純粋な羞恥《しゅうち》の血を頬に上らせながら、まるで弟にでも対するように、ちょいと大井を睨《ね》める
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