フ事を考えるんです。」
 辰子の青白い頬には、あるかない微笑の影がさした。
「薄情な方ね。」
「薄情かも知れません。その代りに自分の関係している事なら――」
「御親切?」
 そこへ新田と初子とが出て来た。
「今度は――と、あちらの病室へ行って見ますか。」
 新田は辰子や俊助の存在を全く忘れてしまったように、さっさと二人の前を通り越して、遠い廊下のつき当りにある戸口の方へ歩き出した。が、初子は辰子の顔を見ると、心もち濃い眉《まゆ》をひそめて、
「どうしたの。顔の色が好くなくってよ。」
「そう。少し頭痛《ずつう》がするの。」
 辰子は低い声でこう答えながら、ちょいと掌《てのひら》を額に当てたが、すぐにいつものはっきりした声で、
「行きましょう。何でもないわ。」
 三人は皆別々の事を考えながら、前後してうす暗い廊下を歩き出した。
 やがて廊下のつき当りまで来ると、新田はその部屋の戸を開けて、後《うしろ》の三人を振返りながら、「御覧なさい」と云う手真似《てまね》をした。ここは柔道の道場を思わせる、広い畳敷の病室だった。そうしてその畳の上には、ざっと二十人近い女の患者が、一様に鼠《ねずみ》の棒縞の着物を着て雑然と群羊のごとく動いていた。俊助は高い天窓《てんまど》の光の下《もと》に、これらの狂人の一団を見渡した時、またさっきの不快な感じが、力強く蘇生《よみがえ》って来るのを意識した。
「皆仲良くしているわね。」
 初子は家畜《かちく》を見るような眼つきをしながら、隣に立っている辰子に囁いた。が、辰子は静に頷《うなず》いただけで、口へ出しては、何とも答えなかった。
「どうです。中へはいって見ますか。」
 新田は嘲るような微笑を浮べて、三人の顔を見廻した。
「僕は真《ま》っ平《ぴら》だ。」
「私も、もう沢山。」
 辰子はこう云って、今更のようにかすかな吐息を洩らした。
「あなたは?」
 初子は生々した血の気を頬《ほお》に漲らせて、媚《こ》びるようにじっと新田の顔を見た。
「私は見せて頂きますわ。」

        二十八

 俊助《しゅんすけ》と辰子《たつこ》とは、さっきの応接室へ引き返した。引き返して見ると、以前はささなかった日の光が、斜《ななめ》に窓硝子《まどガラス》を射透して、ピアノの脚に落ちていた。それからその日の光に蒸されたせいか、壺にさした薔薇《ばら》の花も、前よりは一層重苦しく、甘い※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にお》いを放っていた。最後にあの令嬢の弾《ひ》くオルガンが、まるでこの癲狂院《てんきょういん》の建物のつく吐息《といき》のように、時々廊下の向うから聞えて来た。
「あの御嬢さんは、まだ弾いていらっしゃるのね。」
 辰子はピアノの前に立ったまま、うっとりと眼を遠い所へ漂わせた。俊助は煙草へ火をつけながら、ピアノと向い合った長椅子《ながいす》へ、ぐったりと疲れた腰を下して、
「失恋したくらいで、気が違うものかな。」と、独り語のように呟《つぶや》いた。と、辰子は静に眼を俊助の顔へ移して、
「違わないと御思いになって?」
「さあ――僕は違いそうもありませんね。それよりあなたはどうです。」
「私《わたし》? 私はどうするでしょう。」
 辰子は誰に尋ねるともなくこう云ったが、急に青白い頬に血の色がさすと、眼を白足袋《しろたび》の上に落して、
「わからないわ。」と小さな声を出した。
 俊助は金口《きんぐち》を啣《くわ》えたまま、しばらくはただ黙然《もくねん》と辰子の姿を眺めていたが、やがてわざと軽い調子で、
「御安心なさい。あんたなんぞは失恋するような事はないから。その代り――」
 辰子はまた静に眼を挙げて俊助の眉の間を見た。
「その代り?」
「失恋させるかも知れません。」
 俊助は冗談のように云った言葉が、案外|真面目《まじめ》な調子を帯びていたのに気がついた。と同時に真面目なだけ、それだけ厭味なのを恥しく思った。
「そんな事を。」
 辰子はすぐに眼を伏せたが、やがて俊助の方へ後《うしろ》を向けると、そっとピアノの蓋を開けて、まるで二人をとりまいた、薔薇《ばら》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]いのする沈黙を追い払おうとするように、二つ三つ鍵盤《けんばん》を打った。それは打つ指に力がないのか、いずれも音とは思われないほど、かすかな音を響かせたのに過ぎなかった。が、俊助はその音を聞くと共に、日頃彼の軽蔑《けいべつ》する感傷主義《センティメンタリズム》が、彼自身をもすんでの事に捕えようとしていたのを意識した。この意識は勿論彼にとって、危険の意識には相違なかった。けれども彼の心には、その危険を免《まぬか》れたと云う、満足らしいものはさらになかった。
 しばらくして初子《はつこ》が新田《にった》と一しょに、
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