l行儀《たにんぎょうぎ》が、氷のように溶けて来るのを感じた。と、広告屋の真紅《しんく》の旗が、喇叭《らっぱ》や太鼓《たいこ》の音を風に飛ばせながら、瞬《またた》く間《ま》電車の窓を塞《ふさ》いだ。辰子はわずかに肩を落して、そっと窓の外をふり返った。その時彼女の小さな耳朶《みみたぶ》が、斜《ななめ》にさして来る日の光を受けて、仄《ほの》かに赤く透《す》いて見えた。俊助はそれを美しいと思った。
「先達《せんだって》は、あれからすぐに御帰りになって。」
辰子は俊助の顔へ瞳を返すと、人懐《ひとなつか》しい声でこう云った。
「ええ、一時間ばかりいて帰りました。」
「御宅はやはり本郷《ほんごう》?」
「そうです。森川町《もりかわちょう》。」
俊助は制服の隠しをさぐって、名刺を辰子の手へ渡した。渡す時向うの手を見ると、青玉《サファイア》を入れた金の指環《ゆびわ》が、細っそりとその小指を繞《めぐ》っていた。俊助はそれもまた美しいと思った。
「大学の正門前の横町《よこちょう》です。その内に遊びにいらっしゃい。」
「難有《ありがと》う。いずれ初子《はつこ》さんとでも。」
辰子は名刺を帯の間へ挟《はさ》んで、ほとんど聞えないような返事をした。
二人はまた口を噤《つぐ》んで、電車の音とも風の音ともつかない町の音に耳を傾けた。が、俊助はこの二度目の沈黙を、前のように息苦しくは感じなかった。むしろ彼はその沈黙の中に、ある安らかな幸福の存在さえも明かに意識していたのだった。
十六
俊助《しゅんすけ》の下宿は本郷森川町でも、比較的閑静な一区劃にあった。それも京橋辺《きょうばしへん》の酒屋の隠居所を、ある伝手《つて》から二階だけ貸して貰ったので、畳《たたみ》建具《たてぐ》も世間並の下宿に比べると、遥《はるか》に小綺麗《こぎれい》に出来上っていた。彼はその部屋へ大きな西洋机《デスク》や安楽椅子の類を持ちこんで、見た眼には多少狭苦しいが、とにかく居心《いごころ》は悪くない程度の西洋風な書斎を拵《こしら》え上げた。が、書斎を飾るべき色彩と云っては、ただ書棚を埋《うず》めている洋書の行列があるばかりで、壁に懸っている額の中にも、大抵《たいてい》はありふれた西洋名画の写真版がはいっているのに過ぎなかった。これに常々不服だった彼は、その代りによく草花の鉢を買って来ては、部屋の中央に据えてある寄せ木の卓子《テエブル》の上へ置いた。現に今日も、この卓子《テエブル》の上には、籐《とう》の籠へ入れた桜草《さくらそう》の鉢が、何本も細い茎を抽《ぬ》いた先へ、簇々《ぞくぞく》とうす赤い花を攅《あつ》めている。……
須田町《すだちょう》の乗換で辰子《たつこ》と分れた俊助は、一時間の後この下宿の二階で、窓際の西洋机《デスク》の前へ据えた輪転椅子に腰を下しながら、漫然と金口《きんぐち》の煙草《たばこ》を啣《くわ》えていた。彼の前には読みかけた書物が、象牙《ぞうげ》の紙切小刀《ペエパアナイフ》を挟んだまま、さっきからちゃんと開いてあった。が、今の彼には、その頁に詰まっている思想を咀嚼《そしゃく》するだけの根気がなかった。彼の頭の中には辰子の姿が、煙草の煙のもつれるように、いつまでも美しく這《は》い纏《まつわ》っていた。彼にはその頭の中の幻が、最前電車の中で味った幸福の名残りのごとく見えた。と同時にまた来るべき、さらに大きな幸福の前触れのごとくも見えるのだった。
すると机の上の灰皿《はいざら》に、二三本吸いさしの金口《きんぐち》がたまった時、まず大儀そうに梯子段を登る音がして、それから誰か唐紙《からかみ》の向うへ立止ったけはいがすると、
「おい、いるか。」と、聞き慣れた太い声がした。
「はいり給え。」
俊助がこう答える間《ま》も待たないで、からりとそこの唐紙が開くと、桜草の鉢を置いた寄せ木の卓子《テエブル》の向うには、もう肥った野村《のむら》の姿が、肩を揺《ゆす》ってのそのそはいって来た。
「静だな。玄関で何度御免と言っても、女中一人出て来ない。仕方がないからとうとう、黙って上って来てしまった。」
始めてこの下宿へ来た野村は、万遍《まんべん》なく部屋の中を見廻してから、俊助の指さす安楽椅子へ、どっかり大きな尻を据えた。
「大方女中がまた使いにでも行っていたんだろう。主人の隠居は聾《つんぼ》だから、中々御免くらいじゃ通じやしない。――君は学校の帰りか。」
俊助は卓子《テエブル》の上へ西洋の茶道具を持ち出しながら、ちょいと野村の制服姿へ眼をやった。
「いや、今日はこれから国へ帰って来ようと思って――明後日《あさって》がちょうど親父《おやじ》の三回忌に当るものだから。」
「そりゃ大変だな。君の国じゃ帰るだけでも一仕事だ。」
「何、その方は慣れているから平気だが
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