チたのもまた事実だった。だから近藤が得意になって、さも芸術の極致が、こうした画にあるような、いかがわしい口吻《こうふん》を弄《ろう》し出すと、俊助は義理にも、金口《きんぐち》の煙に隠れて、顔をしかめない訳には行かなかった。が、近藤はそんな事には更に気がつかなかったものと見えて、上《かみ》は古代|希臘《ギリシャ》の陶画から下《しも》は近代|仏蘭西《フランス》の石版画まで、ありとあらゆるこうした画の形式を一々詳しく説明してから、
「そこで面白い事にはですね、あの真面目《まじめ》そうなレムブラントやデュラアまでが、斯《こ》ういう画を描《か》いているんです。しかもレムブラントのやつなんぞは、やっぱり例のレムブラント光線が、ぱっと一箇所に落ちているんだから、振《ふる》っているじゃありませんか。つまりああ云う天才でも、やっぱりこの方面へ手を出すぐらいな俗気《ぞくき》は十分あったんで――まあ、その点は我々と似たり寄ったりだったんでしょう。」
俊助はいよいよ聞き苦しくなった。すると今まで卓子《テエブル》の上へ頬杖《ほおづえ》をついて、半ば眼をつぶっていた大井《おおい》が、にやりと莫迦《ばか》にしたような微笑を洩《もら》すと、欠伸《あくび》を噛み殺したような声を出して、
「おい、君、序《ついで》にレムブラントもデュラアも、我々同様|屁《へ》を垂れたと云う考証を発表して見ちゃどうだ。」
近藤は大きな鼻眼鏡の後《うしろ》から、険《けわ》しい視線を大井へ飛ばせたが、大井は一向《いっこう》平気な顔で、鉈豆《なたまめ》の煙管《きせる》をすぱすぱやりながら、
「あるいは百尺竿頭一歩《ひゃくせきかんとういっぽ》を進めて、同じく屁を垂れるから、君も彼等と甲乙のない天才だと号するのも洒落《しゃ》れているぜ。」
「大井君、よし給えよ。」
「大井さん。もう好《い》いじゃありませんか。」
見兼ねたと云う容子《ようす》で、花房《はなぶさ》と藤沢《ふじさわ》とが、同時に柔《やさ》しい声を出した。と、大井は狡猾《ずる》そうな眼で、まっ青になった近藤の顔をじろじろ覗きこみながら、
「こりゃ失敬したね。僕は何も君を怒らす心算《つもり》で云ったんじゃないんだが――いや、ない所か、君の知識の該博《がいはく》なのには、夙《つと》に敬服に堪えないくらいなんだ。だからまあ、怒らないでくれ給え。」
近藤は執念《しゅうねん》深く口を噤《つぐ》んで、卓子《テエブル》の上の紅茶茶碗へじっと眼を据えていたが、大井がこう云うと同時に、突然椅子から立ち上って、呆気《あっけ》に取られている連中を後《あと》に、さっさと部屋を出て行ってしまった。一座は互に顔を見合せたまま、しばらくの間は気まずい沈黙を守っていなければならなかった。が、やがて俊助は空嘯《そらうそぶ》いている大井の方へ、ちょいと顎《あご》で相図《あいず》をすると、微笑を含んだ静な声で、
「僕は御先へ御免《ごめん》を蒙るから。――」
これが当夜、彼の口を洩れた、最初のそうしてまた最後の言葉だったのである。
十五
するとその後《ご》また一週間と経たない内に、俊助《しゅんすけ》は上野行の電車の中で、偶然|辰子《たつこ》と顔を合せた。
それは春先の東京に珍しくない、埃風《ほこりかぜ》の吹く午後だった。俊助は大学から銀座の八咫屋《やたや》へ額縁の註文に廻った帰りで、尾張町《おわりちょう》の角から電車へ乗ると、ぎっしり両側の席を埋めた乗客の中に、辰子の寂しい顔が見えた。彼が電車の入口に立った時、彼女はやはり黒い絹の肩懸《ショオル》をかけて、膝の上にひろげた婦人雑誌へ、つつましい眼を落しているらしかった。が、その内にふと眼を挙げて、近くの吊皮《つりかわ》にぶら下っている彼の姿を眺めると、たちまち片靨《かたえくぼ》を頬に浮べて、坐ったまま、叮嚀に黙礼の頭を下げた。俊助は会釈《えしゃく》を返すより先に、こみ合った乗客を押し分けて、辰子の前の吊皮へ手をかけながら、
「先夜は――」と、平凡に挨拶《あいさつ》した。
「私《わたし》こそ――」
それぎり二人は口を噤《つぐ》んだ。電車の窓から外を見ると、時々風がなぐれる度に、往来が一面に灰色になる。と思うとまた、銀座通りの町並が、その灰色の中から浮き上って、崩《くず》れるように後《うしろ》へ流れて行く。俊助はそう云う背景の前に、端然と坐っている辰子の姿を、しばらくの間見下していたが、やがてその沈黙がそろそろ苦痛になり出したので、今度はなる可く気軽な調子で、
「今日《きょう》は?――御帰りですか。」と、出直して見た。
「ちょいと兄の所まで――国許《くにもと》の兄が出て参りましたから。」
「学校は? 御休みですか。」
「まだ始りませんの。来月の五日からですって。」
俊助は次第に二人の間の他
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