ナすか。」
「あれですか。あれはゲスタ・ロマノルムです。」
「はあ、ゲスタ・ロマノルムですか。」
清水はけげんな顔をしながら、こう好い加減な返事をすると、さっきから鉈豆《なたまめ》の煙管《きせる》できな臭《くさ》い刻《きざ》みを吹かせていた大井が、卓子《テエブル》の上へ頬杖をついて、
「何だい、そのゲスタ・ロマノルムってやつは?」と、無遠慮な問を抛《ほう》りつけた。
十三
「中世の伝説を集めた本でしてね。十四五世紀の間《あいだ》に出来たものなんですが、何分《なにぶん》原文がひどい羅甸《ラテン》なんで――」
「君にも読めないかい。」
「まあ、どうにかですね。参考にする飜訳《ほんやく》もいろいろありますから。――何でもチョオサアやシェクスピイアも、あれから材料を採《と》ったんだそうです。ですからゲスタ・ロマノルムだって、中々|莫迦《ばか》には出来ませんよ。」
「じゃ君は少くとも材料だけは、チョオサアやシェクスピイアと肩を並べていると云う次第だね。」
俊助はこう云う問答を聞きながら、妙な事を一つ発見した。それは花房《はなぶさ》の声や態度が、不思議なくらい藤沢《ふじさわ》に酷似《こくじ》していると云う事だった。もし離魂病《りこんびょう》と云うものがあるとしたならば、花房は正に藤沢の離魂体《ドッペルゲンゲル》とも見るべき人間だった。が、どちらが正体《しょうたい》でどちらが影法師《かげぼうし》だか、その辺の際どい消息になると、まだ俊助にははっきりと見定めをつける事がむずかしかった。だから彼は花房の饒舌《しゃべ》っている間も、時々胸の赤薔薇《あかばら》を気にしている藤沢を偸《ぬす》み見ずにはいられなかった。
すると今度はその藤沢が、縁《ふち》に繍《ぬい》のある手巾《ハンケチ》で紅茶を飲んだ口もとを拭いながら、また隣の独唱家《ソロイスト》の方を向いて、
「この四月には『城』も特別号を出しますから、その前後には近藤《こんどう》さんを一つ煩《わずら》わせて、展覧会を開こうと思っています。」
「それも妙案ですな。が、展覧会と云うと、何ですか、やはり諸君の作品だけを――」
「ええ、近藤さんの木版画と、花房さんや私《わたし》の油絵と――それから西洋の画の写真版とを陳列しようかと思っているんです。ただ、そうなると、警視庁がまた裸体画は撤回《てっかい》しろなぞとやかましい事を云いそうでしてね。」
「僕の木版画は大丈夫だが、君や花房君の油絵は危険だぜ。殊に君の『Utamaro の黄昏《たそがれ》』に至っちゃ――あなたはあれを御覧になった事がありますか。」
こう云って、鼻眼鏡の近藤はマドロス・パイプの煙を吐きながら、流し眼にじろりと俊助の方を見た。と、俊助がまだ答えない内に、卓子《テエブル》の向うから藤沢が口を挟《はさ》んで、
「そりゃ君、まだ御覧にならないのですよ。いずれその内に、御眼にかけようとは思っているんですが――安田さんは絵本歌枕《えほんうたまくら》と云うものを御覧になった事がありますか。ありません? 私の『Utamaro の黄昏』は、あの中の一枚を装飾的に描《か》いたものなんです。行き方は――と、近藤さん、あれは何と云ったら好いんでしょう。モオリス・ドニでもなし、そうかと云って――」
近藤は鼻眼鏡の後《うしろ》の眼を閉じてしばらく考に耽《ふけ》っていたが、やがて重々しい口を開こうとすると、また大井が横合いから、鉈豆《なたまめ》の煙管《きせる》を啣《くわ》えたままで、
「つまり君、春画《しゅんが》みたいなものなんだろう。」と、乱暴な註釈を施《ほどこ》してしまった。
ところが藤沢は存外不快にも思わなかったと見えて、例のごとく無気味《ぶきみ》なほど柔しい微笑を漂わせながら、
「ええ、そう云えば一番早いかも知れませんね。」と、恬然《てんぜん》として大井に賛成した。
十四
「成程、そりゃ面白そうだ。――ところでどうでしょう、春画《しゅんが》などと云う物は、やっぱり西洋の方が発達しているんですか。」
清水《しみず》がこう尋《たず》ねたのを潮《しお》に、近藤《こんどう》は悠然とマドロス・パイプの灰をはたきながら、大学の素読《そどく》でもしそうな声で、徐《おもむろ》に西洋の恁《こ》うした画の講釈をし始めた。
「一概に春画と云いますが、まあざっと三種類に区別するのが至当なので、第一は××××を描いたもの、第二はその前後だけを描いたもの、第三は単に××××を描いたもの――」
俊助《しゅんすけ》は勿論こう云う話題に、一種の義憤を発するほど、道徳家でないには相違なかった。けれども彼には近藤の美的|偽善《ぎぜん》とも称すべきものが――自家の卑猥《ひわい》な興味の上へ芸術的と云う金箔《きんぱく》を塗りつけるのが、不愉快だ
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