Aとかく田舎の年忌《ねんき》とか何とか云うやつは――」
野村は前以て辟易《へきえき》を披露《ひろう》するごとく、近眼鏡の後《うしろ》の眉をひそめて見せたが、すぐにまた気を変えて、
「ところで僕は君に一つ、頼みたい事があって寄ったのだが――」
十七
「何だい、改まって。」
俊助《しゅんすけ》は紅茶茶碗を野村《のむら》の前へ置くと、自分も卓子《テエブル》の前の椅子へ座を占めて、不思議そうに相手の顔へ眼を注いだ。
「改まりなんぞしやしないさ。」
野村は反《かえ》って恐縮らしく、五分刈《ごぶがり》の頭を撫《な》で廻したが、
「実は例の癲狂院《てんきょういん》行きの一件なんだが――どうだろう。君が僕の代りに初子《はつこ》さんを連れて行って、見せてやってくれないか。僕は今日行くと、何《なん》だ彼《かん》だで一週間ばかりは、とても帰られそうもないんだから。」
「そりゃ困るよ。一週間くらいかかったって、帰ってから、君が連れて行きゃ好いじゃないか。」
「ところが初子さんは、一日も早く見たいと云っているんだ。」
野村は実際困ったような顔をして、しばらくは壁に懸っている写真版へ、順々に眼をくばっていたが、やがてその眼がレオナルドのレダまで行くと、
「おや、あれは君、辰子《たつこ》さんに似ているじゃないか。」と、意外な方面へ談柄《だんぺい》を落した。
「そうかね。僕はそうとも思わないが。」
俊助はこう答えながら、明かに嘘をついていると云う自覚があった。それは勿論彼にとって、面白くない自覚には相違なかった。が、同時にまた、小さな冒険をしているような愉快が潜《ひそ》んでいたのも事実だった。
「似ている。似ている。もう少し辰子さんが肥っていりゃ、あれにそっくりだ。」
野村は近眼鏡の下からしばらくレダを仰いでいた後で、今度はその眼を桜草《さくらそう》の鉢へやると、腹の底から大きな息をついて、
「どうだ。年来の好誼《こうぎ》に免じて、一つ案内役を引き受けてくれないか。僕はもう君が行ってくれるものと思って、その旨を初子さんまで手紙で通知してしまったんだが。」
俊助の舌の先には、「そりゃ君の勝手じゃないか」と云う言葉があった。が、その言葉がまだ口の外へ出ない内に、彼の頭の中へは刹那《せつな》の間、伏目になった辰子の姿が鮮かに浮び上って来た。と、ほとんどそれが相手に通じたかのごとく、野村は安楽椅子の肘を叩きながら、
「初子さん一人なら、そりゃ君の辟易《へきえき》するのも無理はないが、辰子さんも多分――いや、きっと一しょに行くって云っていたから、その辺の心配はいらないんだがね。」
俊助は紅茶茶碗を掌《てのひら》に載せたまま、しばらくの間考えた。行く行かないの問題を考えるのか、一度断った依頼をまた引受けるために、然るべき口実を考えるのか――それも彼には判然しないような心もちがした。
「そりゃ行っても好《い》いが。」
彼は現金すぎる彼自身を恥じながら、こう云った後で、追いかけるように言葉を添えずにはいられなかった。
「そうすりゃ、久しぶりで新田《にった》にも会えるから。」
「やれ、やれ、これでやっと安心した。」
野村はさもほっとしたらしく、胸の釦《ボタン》を二つ三つ外すと、始めて紅茶茶碗を口へつけた。
十八
「日《ひ》はア。」
俊助《しゅんすけ》の眼はまだ野村《のむら》よりも、掌《てのひら》の紅茶茶碗へ止まり易かった。
「来週の水曜日――午後からと云う事になっているんだが、君の都合が悪るけりゃ、月曜か金曜に繰変えても好い。」
「何、水曜なら、ちょうど僕の方も講義のない日だ。それで――と、栗原《くりはら》さんへは僕の方から出かけて行くのか。」
野村は相手の眉《まゆ》の間にある、思い切りの悪い表情を見落さなかった。
「いや、向うからここへ来て貰おう。第一その方が道順《みちじゅん》だから。」
俊助は黙って頷《うなず》いたまま、しばらく閑却《かんきゃく》されていた埃及煙草《エジプトたばこ》へ火をつけた。それから始めてのびのびと椅子《いす》の背に頭を靠《もた》せながら、
「君はもう卒業論文へとりかかったのか。」と、全く別な方面へ話題を開拓した。
「本だけはぽつぽつ読んでいるが――いつになったら考えが纏《まとま》るか、自分でもちょいと見当がつかない。殊にこの頃のように俗用多端じゃ――」
こう云いかけた野村の眼には、また冷評《ひやか》されはしないかと云う懸念《けねん》があった。が、俊助は案外|真面目《まじめ》な調子で、
「多端――と云うと?」と問い返した。
「君にはまだ話さなかったかな。僕の母が今は国にいるが、僕でも大学を卒業したら、こちらへ出て来て、一しょになろうと云うんでね。それにゃ国の田地《でんじ》や何かも整理し
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