浮フ心配には頓着なく、すぐにその通りにあるビヤホオルの看板を見つけて、
「おい、君、もう一杯ここでやって行こう。」と、海老茶《えびちゃ》色をした入口の垂幕《たれまく》を、無造作《むぞうさ》に開いてはいろうとした。
「よせよ。そのくらい御機嫌なら、もう大抵沢山じゃないか。」
「まあ、そんな事を云わずにつき合ってくれ。今度は僕が奢《おご》るから。」
俊助はこの上大井の酒の相手になって、彼の特色ある恋愛談を傾聴するには、余りにポオト・ワインの酔《よい》が醒めすぎていた。そこで今まで抑えていたマントの背中を離しながら、
「じゃ、君一人で飲んで行くさ。僕はいくら奢《おご》られても真平《まっぴら》だ。」
「そうか。じゃ仕方がない。僕はまだ君に聞いて貰いたい事が残っているんだが――」
大井は海老茶色の幕へ手をかけたまま、ふらつく足を踏みしめて、しばらく沈吟《ちんぎん》していたが、やがて俊助の鼻の先へ酒臭い顔を持って来ると、
「君は僕がどうしてあの晩、国府津《こうづ》なんぞへ行ったんだか知らないだろう。ありゃね、嫌《いや》になった女に別れるための方便なんだ。」
俊助は外套の隠しへ両手を入れて、呆《あき》れた顔をしながら、大井と眼を見合せた。
「へええ、どうして?」
「どうしてったって、――まず僕が是非とも国へ帰らなければならないような理由を書き下《おろ》してさ。それから女と泣き別れの愁歎場《しゅうたんば》がよろしくあって、とどあの晩汽車の窓で手巾《ハンケチ》を振ると云うのが大詰《おおづめ》だったんだ。何しろ役者が役者だから、あいつは今でも僕が国へ帰っていると思っているんだろう。時々国の僕へ宛てたあいつの手紙が、こっちの下宿へ転送されて来るからね。」
大井はこう云って、自《みずか》ら嘲るように微笑しながら、大きな掌《てのひら》を俊助の肩へかけて、
「僕だってそんな化《ばけ》の皮が、永久に剥《は》げないとは思っていない。が、剥げるまでは、その化の皮を大事にかぶっていたいんだ。この心もちは君に通じないだろうな。通じなけりゃ――まあ、それまでだが、つまり僕は嫌になった女に別れるんでも、出来るだけ向うを苦しめたくないんだ。出来るだけ――いくら嘘をついてもだね。と云って、何もその場合まで好《い》い子になりたいと云うんじゃない。向うのために、女のために、そうしてやるべき一種の義務が存在す
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