えてある寄せ木の卓子《テエブル》の上へ置いた。現に今日も、この卓子《テエブル》の上には、籐《とう》の籠へ入れた桜草《さくらそう》の鉢が、何本も細い茎を抽《ぬ》いた先へ、簇々《ぞくぞく》とうす赤い花を攅《あつ》めている。……
 須田町《すだちょう》の乗換で辰子《たつこ》と分れた俊助は、一時間の後この下宿の二階で、窓際の西洋机《デスク》の前へ据えた輪転椅子に腰を下しながら、漫然と金口《きんぐち》の煙草《たばこ》を啣《くわ》えていた。彼の前には読みかけた書物が、象牙《ぞうげ》の紙切小刀《ペエパアナイフ》を挟んだまま、さっきからちゃんと開いてあった。が、今の彼には、その頁に詰まっている思想を咀嚼《そしゃく》するだけの根気がなかった。彼の頭の中には辰子の姿が、煙草の煙のもつれるように、いつまでも美しく這《は》い纏《まつわ》っていた。彼にはその頭の中の幻が、最前電車の中で味った幸福の名残りのごとく見えた。と同時にまた来るべき、さらに大きな幸福の前触れのごとくも見えるのだった。
 すると机の上の灰皿《はいざら》に、二三本吸いさしの金口《きんぐち》がたまった時、まず大儀そうに梯子段を登る音がして、それから誰か唐紙《からかみ》の向うへ立止ったけはいがすると、
「おい、いるか。」と、聞き慣れた太い声がした。
「はいり給え。」
 俊助がこう答える間《ま》も待たないで、からりとそこの唐紙が開くと、桜草の鉢を置いた寄せ木の卓子《テエブル》の向うには、もう肥った野村《のむら》の姿が、肩を揺《ゆす》ってのそのそはいって来た。
「静だな。玄関で何度御免と言っても、女中一人出て来ない。仕方がないからとうとう、黙って上って来てしまった。」
 始めてこの下宿へ来た野村は、万遍《まんべん》なく部屋の中を見廻してから、俊助の指さす安楽椅子へ、どっかり大きな尻を据えた。
「大方女中がまた使いにでも行っていたんだろう。主人の隠居は聾《つんぼ》だから、中々御免くらいじゃ通じやしない。――君は学校の帰りか。」
 俊助は卓子《テエブル》の上へ西洋の茶道具を持ち出しながら、ちょいと野村の制服姿へ眼をやった。
「いや、今日はこれから国へ帰って来ようと思って――明後日《あさって》がちょうど親父《おやじ》の三回忌に当るものだから。」
「そりゃ大変だな。君の国じゃ帰るだけでも一仕事だ。」
「何、その方は慣れているから平気だが
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