t深く口を噤《つぐ》んで、卓子《テエブル》の上の紅茶茶碗へじっと眼を据えていたが、大井がこう云うと同時に、突然椅子から立ち上って、呆気《あっけ》に取られている連中を後《あと》に、さっさと部屋を出て行ってしまった。一座は互に顔を見合せたまま、しばらくの間は気まずい沈黙を守っていなければならなかった。が、やがて俊助は空嘯《そらうそぶ》いている大井の方へ、ちょいと顎《あご》で相図《あいず》をすると、微笑を含んだ静な声で、
「僕は御先へ御免《ごめん》を蒙るから。――」
 これが当夜、彼の口を洩れた、最初のそうしてまた最後の言葉だったのである。

        十五

 するとその後《ご》また一週間と経たない内に、俊助《しゅんすけ》は上野行の電車の中で、偶然|辰子《たつこ》と顔を合せた。
 それは春先の東京に珍しくない、埃風《ほこりかぜ》の吹く午後だった。俊助は大学から銀座の八咫屋《やたや》へ額縁の註文に廻った帰りで、尾張町《おわりちょう》の角から電車へ乗ると、ぎっしり両側の席を埋めた乗客の中に、辰子の寂しい顔が見えた。彼が電車の入口に立った時、彼女はやはり黒い絹の肩懸《ショオル》をかけて、膝の上にひろげた婦人雑誌へ、つつましい眼を落しているらしかった。が、その内にふと眼を挙げて、近くの吊皮《つりかわ》にぶら下っている彼の姿を眺めると、たちまち片靨《かたえくぼ》を頬に浮べて、坐ったまま、叮嚀に黙礼の頭を下げた。俊助は会釈《えしゃく》を返すより先に、こみ合った乗客を押し分けて、辰子の前の吊皮へ手をかけながら、
「先夜は――」と、平凡に挨拶《あいさつ》した。
「私《わたし》こそ――」
 それぎり二人は口を噤《つぐ》んだ。電車の窓から外を見ると、時々風がなぐれる度に、往来が一面に灰色になる。と思うとまた、銀座通りの町並が、その灰色の中から浮き上って、崩《くず》れるように後《うしろ》へ流れて行く。俊助はそう云う背景の前に、端然と坐っている辰子の姿を、しばらくの間見下していたが、やがてその沈黙がそろそろ苦痛になり出したので、今度はなる可く気軽な調子で、
「今日《きょう》は?――御帰りですか。」と、出直して見た。
「ちょいと兄の所まで――国許《くにもと》の兄が出て参りましたから。」
「学校は? 御休みですか。」
「まだ始りませんの。来月の五日からですって。」
 俊助は次第に二人の間の他
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