閧ワせん。」
 俊助はただ微笑で野村に答えながら、もう一度辰子に声をかけて見た。
「お体は実際お悪いんですか。」
「ええ、心臓が少し――大した事はございませんけれど。」
 するとさっきから退屈そうな顔をして、一同の顔を眺めていた民雄《たみお》が、下からぐいぐい俊助の手をひっぱって、
「辰子さんはね、あすこの梯子段《はしごだん》を上っても、息が切れるんだとさ。僕は二段ずつ一遍にとび上る事が出来るんだぜ。」
 俊助は辰子と顔を見合せて、ようやく心置きのない微笑を交換した。

        十一

 辰子《たつこ》は蒼白い頬《ほお》に片靨《かたえくぼ》を寄せたまま、静に民雄《たみお》から初子《はつこ》へ眼を移して、
「民雄さんはそりゃお強いの。さっきもあの梯子段の手すりへ跨《またが》って、辷《すべ》り下りようとなさるんでしょう。私|吃驚《びっくり》して、墜《お》ちて死んだらどうなさるのって云ったら――ねえ、民雄さん。あなたあの時、僕はまだ死んだ事がないから、どうするかわからないって仰有《おっしゃ》ったわね。私|可笑《おか》しくって――」
「成程《なるほど》ね、こりゃ却々《なかなか》哲学的だ。」
 野村《のむら》はまた誰よりも大きな声で笑い出した。
「まあ、生意気《なまいき》ったらないのね。――だから姉さんがいつでも云うんだわ、民雄さんは莫迦《ばか》だって。」
 部屋の中の火気に蒸されて、一層血色の鮮《あざやか》になった初子が、ちょっと睨《ね》める真似をしながら、こう弟を窘《たしな》めると、民雄はまだ俊助の手をつかまえたまま、
「ううん。僕は莫迦じゃないよ。」
「じゃ利巧《りこう》か?」
 今度は俊助まで口を出した。
「ううん、利巧でもない。」
「じゃ何だい。」
 民雄はこう云った野村の顔を見上げながら、ほとんど滑稽に近い真面目さを眉目《びもく》の間《あいだ》に閃かせて、
「中位《ちゅうぐらい》。」と道破《どうは》した。
 四人は声を合せて失笑した。
「中位《ちゅうぐらい》は好かった。大人《おとな》もそう思ってさえいれば、一生幸福に暮せるのに相違ない。こりゃ初子さんなんぞは殊に拳々服膺《けんけんふくよう》すべき事かも知れませんぜ。辰子さんの方は大丈夫だが――」
 その笑い声が静まった時、野村は広い胸の上に腕を組んで、二人の若い女を見比べた。
「何とでもおっしゃい。今夜は野
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