たいと云う欲望もあった。で同時にまたそうしてはならないと云う気も働いていた。そこで彼は少くとも現在以上の動揺を心に齎《もたら》さない方便として、成る可く眼を演壇から離さないような工夫《くふう》をした。
金屏風《きんびょうぶ》を立て廻した演壇へは、まずフロックを着た中年の紳士が現れて、額《ひたい》に垂れかかる髪をかき上げながら、撫でるように柔《やさ》しくシュウマンを唱《うた》った。それは Ich Kann's nicht fassen, nicht glauben で始まるシャミッソオの歌《リイド》だった。俊助はその舌たるい唄いぶりの中から、何か恐るべく不健全な香気が、発散して来るのを感ぜずにはいられなかった。そうしてこの香気が彼の騒ぐ心を一層|苛立《いらだ》てて行くような気がしてならなかった。だからようやく独唱《ソロ》が終って、けたたましい拍手《はくしゅ》の音が起った時、彼はわずかにほっとした眼を挙げて、まるで救いを求めるように隣席の大井《おおい》を振返った。すると大井はプログラムを丸く巻いて、それを望遠鏡のように眼へ当てながら、演壇の上に頭を下げているシュウマンの独唱家《ソロイスト》を覗《のぞ》いていたが、
「成程《なるほど》、清水《しみず》と云う男は、立派《りっぱ》に色魔たるべき人相《にんそう》を具えているな。」と、呟《つぶや》くような声で云った。
俊助は初めてその中年の紳士が清水昌一《しみずしょういち》と云う男だったのに気がついた。そこでまた演壇の方へ眼を返すと、今度はそこへ裾模様の令嬢が、盛な喝采《かっさい》に迎えられながら、ヴァイオリンを抱《だ》いてしずしずと登って来る所だった。令嬢はほとんど人形のように可愛かったが、遺憾ながらヴァイオリンはただ間違わずに一通り弾いて行くと云うだけのものだった。けれども俊助は幸《さいわい》と、清水昌一のシュウマンほど悪甘い刺戟に脅《おびや》かされないで、ともかくも快よくチャイコウスキイの神秘な世界に安住出来るのを喜んだ。が、大井はやはり退屈らしく、後頭部を椅子の背に凭《もた》せて、時々無遠慮に鼻を鳴らしていたが、やがて急に思いついたという調子で、
「おい、野村君が来ているのを知っているか。」
「知っている。」
俊助は小声でこう答えながら、それでもなお眼は金屏風の前の令嬢からほかへ動かさなかった。と、大井は相手の答が物
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