の色を透《す》かせた。空は絶えず雲の翳《かげ》に遮《さえぎ》られて、春先の麗《うら》らかな日の光も、滅多《めった》にさしては来なかった。さしてもまた大抵は、風に戦《そよ》いでいる椎の葉が、朦朧《もうろう》たる影を書物の上へ落すか落さない内に消えてしまった。その書物の上には、色鉛筆の赤い線が、何本も行《ぎょう》の下に引いてあった。そうしてそれが時の移ると共に、次第に頁から頁へ移って行った。……
 十二時半、一時、一時二十分――書庫の上の時計の針は、休みなく確かに動いて行った。するとかれこれ二時かとも思う時分、図書館の扉口《とぐち》に近い、目録《カタログ》の函《はこ》の並んでいる所へ、小倉《こくら》の袴に黒木綿《くろもめん》の紋附《もんつき》をひっかけた、背の低い角帽が一人、無精《ぶしょう》らしく懐手《ふところで》をしながら、ふらりと外からはいって来た。これはその懐からだらしなくはみ出したノオト・ブックの署名によると、やはり文科の学生で、大井篤夫《おおいあつお》と云う男らしかった。
 彼はそこに佇《たたず》んだまま、しばらくはただあたりの机を睨《ね》めつけたように物色していたが、やがて向うの窓を洩れる大幅《おおはば》な薄日《うすび》の光の中に、余念なく書物をはぐっている俊助の姿が目にはいると、早速《さっそく》その椅子《いす》の後《うしろ》へ歩み寄って、「おい」と小さな声をかけた。俊助は驚いたように顔を挙げて、相手の方を振返ったが、たちまち浅黒い頬《ほお》に微笑を浮べて「やあ」と簡単な挨拶をした。と、大井も角帽をかぶったなり、ちょいと顋《あご》でこの挨拶に答えながら、妙に脂下《やにさが》った、傲岸《ごうがん》な調子で、
「今朝《けさ》郁文堂《いくぶんどう》で野村さんに会ったら、君に言伝《ことづ》てを頼まれた。別に差支えがなかったら、三時までに『鉢《はち》の木《き》』の二階へ来てくれと云うんだが。」

        二

「そうか。そりゃ難有《ありがと》う。」
 俊助《しゅんすけ》はこう云いながら、小さな金時計を出して見た。すると大井《おおい》は内懐《うちぶところ》から手を出して剃痕《そりあと》の青い顋《あご》を撫《な》で廻しながら、じろりとその時計を見て、
「すばらしい物を持っているな。おまけに女持ちらしいじゃないか。」
「これか。こりゃ母の形見だ。」
 俊助はちょいと
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