、いっそう騒然と、立ちのぼった。
沙金《しゃきん》は、月を仰ぎながら、稲妻のごとく眉《まゆ》を動かした。
「しかたがないわね。じゃ、わたしたちだけ帰りましょう。」
そういう話のまだ終わらないうちに、そうして、次郎がそれを聞かないもののように、再び指を口に含んで相図を吹こうとした時に、盗人たちの何人かが、むらむらと備えを乱して、左右へ分かれた中から、人と犬とが一つになって、二人の近くへ迫って来た。――と思うと、沙金の手に弓返《ゆがえ》りの音がして、まっさきに進んだ白犬が一頭、たかうすびょうの矢に腹を縫われて、苦鳴と共に、横に倒れる。見る間に、黒血がその腹から、斑々《はんぱん》として砂にたれた。が、犬に続いた一人の男は、それにもおじず、太刀をふりかざして、横あいから次郎に切ってかかる。その太刀が、ほとんど無意識に受けとめた、次郎の太刀の刃を打って、鏘然《そうぜん》とした響きと共に、またたく間《あいだ》、火花を散らした。――次郎はその時、月あかりに、汗にぬれた赤ひげと切り裂かれた樺桜《かばざくら》の直垂《ひたたれ》とを、相手の男に認めたのである。
彼は直下《じきげ》に、立本寺《りゅうほんじ》の門前を、ありありと目に浮かべた。そうして、それと共に、恐ろしい疑惑が、突然として、彼を脅かした。沙金《しゃきん》はこの男と腹を合わせて、兄のみならず、自分をも殺そうとするのではあるまいか。一髪の間《かん》にこういう疑いをいだいた次郎は、目の前が暗くなるような怒りを感じて、相手の太刀《たち》の下を、脱兎《だっと》のごとく、くぐりぬけると、両手に堅く握った太刀を、奮然として、相手の胸に突き刺した。そうして、ひとたまりもなく倒れる相手の男の顔を、したたか藁沓《わろうず》でふみにじった。
彼は、相手の血が、生暖かく彼の手にかかったのを感じた。太刀の先が肋《あばら》の骨に触れて、強い抵抗を受けたのを感じた。そうしてまた、断末魔の相手が、ふみつけた彼の藁沓《わろうず》に、下から何度もかみついたのを感じた。それが、彼の復讐心《ふくしゅうしん》に、快い刺激を与えたのは、もちろんである。が、それにつれて、彼はまた、ある名状しがたい心の疲労に、襲われた。もし周囲が周囲だったら、彼は必ずそこに身を投げ出して、飽くまで休息をむさぼった事であろう。しかし、彼が相手の顔をふみつけて、血のしたたる太刀を向こうの胸から引きぬいているうちに、もう何人かの侍は、四方から彼をとり囲んだ。いや、すでに後ろから、忍びよった男の鉾《ほこ》は、危うく鋒《きっさき》を、彼の背に擬している。が、その男は、不意に前へよろめくと、鉾の先に次郎の水干《すいかん》の袖《そで》を裂いて、うつむけにがくり[#「がくり」に傍点]と倒れた。たかうすびょうの矢が一筋、颯然《さつぜん》と風を切りながら、ひとゆりゆって後頭部へ、ぐさと箆深《のぶか》く立ったからである。
それからのちの事は、次郎にも、まるで夢のようにしか思われない。彼はただ、前後左右から落ちて来る太刀《たち》の中に、獣のようなうなり声を出して、相手を選まず渡り合った。周囲に沸き返っている、声とも音ともつかない物の響きと、その中に出没する、血と汗とにまみれた人の顔と――そのほかのものは、何も目にはいらない。ただ、さすがに、あとにのこして来た沙金《しゃきん》の事が、太刀からほとばしる火花のように、時々心にひらめいた。が、ひらめいたと思ううちに、刻々迫ってくる生死の危急が、たちまちそれをかき消してしまう。そうして、そのあとにはまた、太刀音と矢たけびとが、天をおおう蝗《いなご》の羽音のように、築土《ついじ》にせかれた小路《こうじ》の中で、とめどもなくわき返った。――次郎は、こういう勢いに促されて、いつか二人の侍と三頭の犬とに追われながら、小路を南へ少しずつ切り立てられて来たのである。
が、相手の一人を殺し、一人を追いはらったあとで、犬だけなら、恐れる事もないと思ったのは、結局次郎の空だのみにすぎなかった。犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの逸物《いちもつ》で、子牛もこれにくらべれば、大きい事はあっても、小さい事はない。それが皆、口のまわりを人間の血にぬらして、前に変わらず彼の足もとへ、左右から襲いかかった。一頭の頤《あご》を蹴返《けかえ》すと、一頭が肩先へおどりかかる。それと同時に、一頭の牙《きば》が、すんでに太刀《たち》を持った手を、かもうとした。とまた、三頭とも巴《ともえ》のように、彼の前後に輪を描いて、尾を空ざまに上げながら、砂のにおいをかぐように、頤《あご》を前足へすりつけて、びょうびょうとほえ立てる。――相手を殺したのに、気のゆるんだ次郎は、前よりもいっそう、この狩犬の執拗《しゅうね》い働きに悩まされた。
しかも、いら立てば立つほど、彼の打つ太刀は皆|空《くう》を切って、ややともすれば、足場を失わせようとする。犬は、そのすきに乗じて、熱い息を吐きながら、いよいよ休みなく肉薄した。もうこうなっては、ただ、窮余の一策しか残っていない。そこで、彼は、事によったら、犬が追いあぐんで、どこかに逃げ場ができるかもしれないという、一縷《いちる》の望みにたよりながら、打ちはずした太刀を引いて、おりから足をねらった犬の背を危うく向こうへとび越えると、月の光をたよりにして、ひた走りに走り出した。が、もとよりこの企ても、しょせんはおぼれようとするものが、藁《わら》でもつかむのと変わりはない。犬は、彼が逃げるのを見ると、ひとしくきりりと尾を巻いて、あと足に砂を蹴上《けあ》げながら真一文字に追いすがった。
が、彼のこの企ては、単に失敗したというだけの事ではない。実はそれがために、かえって虎口《ここう》にはいるような事ができたのである。――次郎は立本寺《りゅうほんじ》の辻《つじ》をきわどく西へ切れて、ものの二町と走るか走らないうちに、たちまち行く手の夜を破って、今自身を追っている犬の声より、より多くの犬の声が、耳を貫ぬいて起こるのを聞いた。それから、月に白《しら》んだ小路《こうじ》をふさいで、黒雲に足のはえたような犬の群れが、右往左往に入り乱れて、餌食《えじき》を争っているさまが見えた。最後に――それはほとんど寸刻のいとまもなかったくらいである。すばやく彼を駆けぬけた狩犬の一頭が、友を集めるように高くほえると、そこに狂っていた犬の群れは、ことごとく相呼び相答えて、一度に※[#「けものへん+言」、第4水準2−80−36]々《ぎんぎん》の声をあげながら、見る間に彼を、その生きて動く、なまぐさい毛皮の渦巻《うずま》きの中へ巻きこんだ。深夜、この小路に、こうまで犬の集まっていたのは、もとよりいつもある事ではない。次郎は、この廃都をわが物顔に、十二十と頭をそろえて、血のにおいに飢えて歩く、獰猛《どうもう》な野犬の群れが、ここに捨ててあった疫病《えやみ》の女を、宵《よい》のうちから餌食にして、互いに牙《きば》をかみながら、そのちぎれちぎれな肉や骨を、奪い合っているところへ、来たのである。
犬は、新しい餌食を見ると、一瞬のいとまもなく、あらしに吹かれて飛ぶ稲穂のように、八方から次郎へ飛びかかった。たくましい黒犬が、太刀《たち》の上をおどり越えると、尾のない狐《きつね》に似た犬が、後ろから来て、肩をかすめる。血にぬれた口ひげが、ひやりと頬《ほお》にさわったかと思うと、砂だらけな足の毛が、斜めに眉《まゆ》の間をなでた。切ろうにも突こうにも、どれと相手を定める事ができない。前を見ても、後ろを見ても、ただ、青くかがやいている目と、絶えずあえいでいる口とがあるばかり、しかもその目とその口が、数限りもなく、道をうずめて、ひしひしと足もとに迫って来る。――次郎は、太刀《たち》を回しながら、急に、猪熊《いのくま》のばばの話を思い出した。「どうせ死ぬのなら一思いに死んだほうがいい。」彼は、そう心に叫んで、いさぎよく目をつぶったが、喉《のど》をかもうとする犬の息が、暖かく顔へかかると、思わずまた、目をあいて、横なぐりに太刀をふるった。何度それを繰り返したか、わからない。しかし、そのうちに、腕の力が、次第に衰えて来たのであろう、打つ太刀が、一太刀ごとに重くなった。今では踏む足さえ危うくなった。そこへ、切った犬の数よりも、はるかに多い野犬の群れが、あるいは芒原《すすきはら》の向こうから、あるいは築土《ついじ》のこわれをぬけて、続々として、つどって来る。――
次郎は、絶望の目をあげて、天上の小さな月を一瞥《いちべつ》しながら、太刀を両手にかまえたまま、兄の事や沙金《しゃきん》の事を、一度に石火《せっか》のごとく、思い浮かべた。兄を殺そうとした自分が、かえって犬に食われて死ぬ。これより至極《しごく》な天罰はない。――そう思うと、彼の目には、おのずから涙が浮かんだ。が、犬はその間も、用捨はしない。さっきの狩犬の一頭が、ひらりと茶まだらな尾をふるったかと思うと、次郎はたちまち左の太腿《ふともも》に、鋭い牙《きば》の立ったのを感じた。
するとその時である。月にほのめいた両京二十七坊の夜の底から、かまびすしい犬の声を圧してはるかに戞々《かつかつ》たる馬蹄《ばてい》の音が、風のように空へあがり始めた。……
―――――――――――――――――
しかしその間も阿濃《あこぎ》だけは、安らかな微笑を浮かべながら、羅生門《らしょうもん》の楼上にたたずんで、遠くの月の出をながめている。東山の上が、うす明るく青んだ中に、ひでりにやせた月は、おもむろにさみしく、中空《なかぞら》に上ってゆく。それにつれて、加茂川にかかっている橋が、その白々《しらじら》とした水光《すずびか》りの上に、いつか暗く浮き上がって来た。
ひとり加茂川ばかりではない。さっきまでは、目の下に黒く死人《しびと》のにおいを蔵していた京の町も、わずかの間《ま》に、つめたい光の鍍金《めっき》をかけられて、今では、越《こし》の国の人が見るという蜃気楼《かいやぐら》のように、塔の九輪や伽藍《がらん》の屋根を、おぼつかなく光らせながら、ほのかな明るみと影との中に、あらゆる物象を、ぼんやりとつつんでいる。町をめぐる山々も、日中のほとぼりを返しているのであろう、おのずから頂きをおぼろげな月明かりにぼかしながら、どの峰も、じっと物を思ってでもいるように、うすい靄《もや》の上から、静かに荒廃した町を見おろしている――と、その中で、かすかに凌霄花《のうぜんかずら》のにおいがした。門の左右を埋《うず》める藪《やぶ》のところどころから、簇々《そうそう》とつるをのばしたその花が、今では古びた門の柱にまといついて、ずり落ちそうになった瓦《かわら》の上や、蜘蛛《くも》の巣をかけた楹《たるき》の間へ、はい上がったのがあるからであろう。……
窓によりかかった阿濃《あこぎ》は、鼻の穴を大きくして、思い入れ凌霄花のにおいを吸いながら、なつかしい次郎の事を、そうして、早く日の目を見ようとして、動いている胎児の事を、それからそれへと、とめどなく思いつづけた。――彼女は双親《ふたおや》を覚えていない。生まれた所の様子さえ、もう全く忘れている。なんでも幼い時に一度、この羅生門《らしょうもん》のような、大きな丹塗《にぬ》りの門の下を、たれかに抱くか、負われかして、通ったという記憶がある。が、これももちろん、どのくらいほんとうだか、確かな事はわからない。ただ、どうにかこうにか、覚えているのは、物心がついてからのちの事ばかりである。そうして、それがまた、覚えていないほうがよかったと思うような事ばかりである。ある時は、町の子供にいじめられて、五条の橋の上から河原へ、さかさまにつき落とされた。ある時は、飢えにせまってした盗みの咎《とが》で、裸のまま、地蔵堂の梁《うつばり》へつり上げられた。それがふと沙金《しゃきん》に助けられて、自然とこの盗人の群れにはいったが、それでも苦しい目にあう事は、以前と少しも変わりがない。白痴に近い天性を持って生まれた彼
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