女にも、苦しみを、苦しみとして感じる心はある。阿濃《あこぎ》は猪熊《いのくま》のばばの気に逆らっては、よくむごたらしく打擲《ちょうちゃく》された。猪熊の爺《おじ》には、酔った勢いで、よく無理難題を言いかけられた。ふだんは何かといたわってくれる沙金《しゃきん》でさえ、癇《かん》にさわると、彼女の髪の毛をつかんで、ずるずる引きずりまわす事がある。まして、ほかの盗人たちは、打つにもたたくにも、用捨はない。阿濃は、そのたびにいつもこの羅生門《らしょうもん》の上へ逃げて来ては、ひとりでしくしく泣いていた。もし次郎が来なかったら、そうして時々、やさしいことばをかけてくれなかったら、おそらくとうにこの門の下へ身を投げて、死んでしまっていた事であろう。
 煤《すす》のようなものが、ひらひらと月にひるがえって、甍《いらか》の下から、窓の外をうす青い空へ上がった。言うまでもなく蝙蝠《こうもり》である。阿濃は、その空へ目をやって、まばらな星に、うっとりとながめ入った。――するとまたひとしきり、腹の子が、身動きをする。彼女は急に耳をすますようにして、その身動きに気をつけた。彼女の心が、人間の苦しみをのがれようとして、もがくように、腹の子はまた、人間の苦しみを嘗《な》めに来ようとして、もがいている。が、阿濃は、そんな事は考えない。ただ、母になるという喜びだけが、そうして、また、自分も母になれるという喜びだけが、この凌霄花《のうぜんかずら》のにおいのように、さっきから彼女の心をいっぱいにしているからである。
 そのうちに、彼女はふと、胎児が動くのは、眠れないからではないかと思いだした。事によると、眠られないあまりに、小さな手や足を動かして、泣いてでもいるのかもしれない。「坊やはいい子だね。おとなしく、ねんねしておいで、今にじき夜が明けるよ。」――彼女は、こう胎児にささやいた。が、腹の中の身動きは、やみそうで、容易にやまない。そのうちに痛みさえ、どうやら少しずつ加わって来る。阿濃《あこぎ》は、窓を離れて、その下にうずくまりながら、結び燈台のうす暗い灯《ひ》にそむいて、腹の中の子を慰めようと、細い声で歌をうたった。
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君をおきて
あだし心を
われ持たばや
なよや、末の松山
波も越えなむや
波も越えなむ
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 うろ覚えに覚えた歌の声は、灯《ひ》のゆれるのに従って、ふるえふるえ、しんとした楼の中に断続した。歌は、次郎が好んでうたう歌である。酔うと、彼は必ず、扇で拍子をとりながら、目をねむって、何度もこの歌をうたう。沙金《しゃきん》はよく、その節回しがおかしいと言って、手を打って笑った。――その歌を、腹の中の子が、喜ばないというはずはない。
 しかし、その子が、実際次郎の胤《たね》かどうか、それは、たれも知っているものがない。阿濃《あこぎ》自身も、この事だけは、全く口をつぐんでいる。たとえ盗人たちが、意地悪く子の親を問いつめても、彼女は両手を胸に組んだまま、はずかしそうに目を伏せて、いよいよ執拗《しゅうね》く黙ってしまう。そういう時は、必ず垢《あか》じみた彼女の顔に女らしい血の色がさして、いつか睫毛《まつげ》にも、涙がたまって来る。盗人たちは、それを見ると、ますます何かとはやし立てて、腹の子の親さえ知らない、阿呆《あほう》な彼女をあざわらった。が、阿濃は胎児が次郎の子だという事を、かたく心の中で信じている。そうして、自分の恋している次郎の子が、自分の腹にやどるのは、当然な事だと信じている。この楼の上で、ひとりさびしく寝るごとに、必ず夢に見るあの次郎が、親でなかったとしたならば、たれがこの子の親であろう。――阿濃は、この時、歌をうたいながら、遠い所を見るような目をして、蚊に刺されるのも知らずに、うつつながら夢を見た。人間の苦しみを忘れた、しかもまた人間の苦しみに色づけられた、うつくしく、いたましい夢である。(涙を知らないものの見る事ができる夢ではない。)そこでは、いっさいの悪が、眼底を払って、消えてしまう。が、人間の悲しみだけは、――空をみたしている月の光のように、大きな人間の悲しみだけは、やはりさびしくおごそかに残っている。……
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なよや、末の松山
波も越えなむや
波も越えなむ
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 歌の声は、ともし火の光のように、次第に細りながら消えていった。そうして、それと共に、力のない呻吟《しんぎん》の声が、暗《やみ》を誘うごとく、かすかにもれ始めた。阿濃《あこぎ》は、歌の半ばで、突然下腹に、鋭い疼痛《とうつう》を感じ出したのである。

          ―――――――――――――――――

 相手の用意に裏をかかれた盗人の群れは、裏門を襲った一隊も、防ぎ矢に射しらまされたのを始めとして、中門《ちゅうもん》を打って出た侍たちに、やはり手痛い逆撃《さかう》ちをくらわせられた。たかが青侍の腕だてと思い侮っていた先手《せんて》の何人かも、算を乱しながら、背《そびら》を見せる――中でも、臆病《おくびょう》な猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、たれよりも先に逃げかかったが、どうした拍子か、方角を誤って、太刀《たち》をぬきつれた侍たちのただ中へ、はいるともなく、はいってしまった。酒肥《さかぶと》りした体格と言い、物々しく鉾《ほこ》をひっさげた様子と言い、ひとかど手なみのすぐれたものと、思われでもしたのであろう。侍たちは、彼を見ると、互いに目くばせをかわしながら、二人三人、鋒《きっさき》をそろえたまま、じりじり前後から、つめよせて来た。
「はやるまいぞ。わしはこの殿の家人《けにん》じゃ。」
 猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、苦しまぎれにあわただしくこう叫んだ。
「うそをつけ。――おのれにたばかれるような阿呆《あほう》と思うか。――往生ぎわの悪いおやじじゃ。」
 侍たちは、口々にののしりながら、早くも太刀《たち》を打ちかけようとする。もうこうなっては、逃げようとしても逃げられない。猪熊の爺の顔は、とうとう死人《しびと》のような色になった。
「何がうそじゃ。何がうそじゃよ。」
 彼は、目を大きくして、あたりをしきりに見回しながら、逃げ場はないかと気をあせった。額には、つめたい汗がわいて来る。手もふるえが止まらない。が、周囲は、どこを見ても、むごたらしい生死の争いが、盗人と侍との間に戦われているばかり、静かな月の下ではあるが、はげしい太刀音《たちおと》と叫喚の声とが、一塊《ひとかたまり》になった敵味方の中から、ひっきりなしにあがって来る。――しょせん逃げられないとさとった彼は、目を相手の上にすえると、たちまち別人のように、凶悪なけしきになって、上下《じょうげ》の齒をむき出しながら、すばやく鉾《ほこ》をかまえて、威丈高《いたけだか》にののしった。
「うそをついたがどうしたのじゃ。阿呆《あほう》。外道《げどう》。畜生。さあ来い。」
 こう言うことばと共に、鉾《ほこ》の先からは、火花が飛んだ。中でも屈竟《くっきょう》な、赤あざのある侍が一人、衆に先んじてかたわらから、無二無三に切ってかかったのである。が、もとより年をとった彼が、この侍の相手になるわけはない。まだ十合《じゅうごう》と刃《は》を合わせないうちに、見る見る、鉾先《ほこさき》がしどろになって、次第にあとへ下がってゆく。それがやがて小路のまん中まで、切り立てられて来たかと思うと、相手は、大きな声を出して、彼が持っていた鉾《ほこ》の柄《え》を、みごとに半ばから、切り折った。と、また一太刀《ひとたち》、今度は、右の肩先から胸へかけて、袈裟《けさ》がけに浴びせかける。猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、尻居《しりい》に倒れて、とび出しそうに大きく目を見ひらいたが、急に恐怖と苦痛とに堪えられなくなったのであろう、あわてて高這《たかば》いに這《は》いのきながら声をふるわせて、わめき立てた。
「だまし討ちじゃ。だまし討ちを、食らわせおった。助けてくれ。だまし討ちじゃ。」
 赤あざの侍は、その後ろからまた、のび上がって、血に染んだ太刀《たち》をふりかざした。その時もし、どこからか猿《さる》のようなものが、走って来て、帷子《かたびら》の裾《すそ》を月にひるがえしながら、彼らの中へとびこまなかったとしたならば、猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、すでに、あえない最後を遂げていたのに相違ない。が、その猿《さる》のようなものは、彼と相手との間を押しへだてると、とっさに小刀《さすが》をひらめかして、相手の乳の下へ刺し通した。そうして、それとともに、相手の横に払った太刀《たち》をあびて、恐ろしい叫び声を出しながら、焼け火箸《ひばし》でも踏んだように、勢いよくとび上がると、そのまま、向こうの顔へしがみついて、二人いっしょにどうと倒れた。
 それから、二人の間には、ほとんど人間とは思われない、猛烈なつかみ合いが、始まった。打つ。噛《か》む。髪をむしる。しばらくは、どちらがどちらともわからなかったが、やがて、猿のようなものが、上になると、再び小刀《さすが》がきらりと光って、組みしかれた男の顔は、痣《あざ》だけ元のように赤く残しながら、見ているうちに、色が変わった。すると、相手もそのまま、力が抜けたのか、侍の上へ折り重なって、仰向けにぐたりとなる――その時、始めて月の光にぬれながら、息も絶え絶えにあえいでいる、しわだらけの、蟇《ひき》に似た、猪熊のばばの顔が見えた。
 老婆は、肩で息をしながら、侍の死体の上に横たわって、まだ相手の髻《もとどり》をとらえた、左の手もゆるめずに、しばらくは苦しそうな呻吟《しんぎん》の声をつづけていたが、やがて白い目を、ぎょろりと一つ動かすと、干《ひ》からびたくちびるを、二三度無理に動かして、
「おじいさん。おじいさん。」と、かすかに、しかもなつかしそうに、自分の夫を呼びかけた。が、たれもこれに答えるものはない。猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、老女の救いを得《う》ると共に、打ち物も何も投げすてて、こけつまろびつ、血にすべりながら、いち早くどこかへ逃げてしまった。そのあとにももちろん、何人かの盗人たちは、小路《こうじ》のそこここに、得物《えもの》をふるって、必死の戦いをつづけている。が、それらは皆、この垂死の老婆にとって、相手の侍と同じような、行路の人に過ぎないのであろう。――猪熊のばばは、次第に細ってゆく声で、何度となく、夫の名を呼んだ。そうして、そのたびに、答えられないさびしさを、負うている傷の痛みよりも、より鋭く味わわされた。しかも、刻々衰えて行く視力には、次第に周囲の光景が、ぼんやりとかすんで来る。ただ、自分の上にひろがっている大きな夜の空と、その中にかかっている小さな白い月と、それよりほかのものは、何一つはっきりとわからない。
「おじいさん。」
 老婆は、血の交じった唾《つば》を、口の中にためながら、ささやくようにこう言うと、それなり恍惚《こうこつ》とした、失神の底に、――おそらくは、さめる時のない眠りの底に、昏々《こんこん》として沈んで行った。
 その時である。太郎は、そこを栗毛《くりげ》の裸馬にまたがって、血にまみれた太刀《たち》を、口にくわえながら、両の手に手綱《たづな》をとって、あらしのように通りすぎた。馬は言うまでもなく、沙金《しゃきん》が目をつけた、陸奥出《みちのくで》の三才駒《さんさいごま》であろう。すでに、盗人たちがちりぢりに、死人《しびと》を残して引き揚げた小路は、月に照らされて、さながら霜を置いたようにうす白《じろ》い。彼は、乱れた髪を微風に吹かせながら、馬上に頭《こうべ》をめぐらして、後《しりえ》にののしり騒ぐ人々の群れを、誇らかにながめやった。
 それも無理はない。彼は、味方の破れるのを見ると、よしや何物を得なくとも、この馬だけは奪おうと、かたく心に決したのである。そうして、その決心どおり、葛巻《つづらま》きの太刀《たち》をふるいふるい、手に立つ侍を切り払って、単身門の中に踏みこむと、苦もなく厩《うまや》の戸を蹴破《けやぶ
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