、今さらのように、殺さなかったのを後悔した。が、彼はおもむろに太刀の柄から手を離すと、彼自身をあわれむように苦笑をくちびるに浮かべながら、手近の古畳の上へしぶしぶ腰をおろした。
「おぬしを殺すような太刀は、持たぬわ。」
「殺せば、親殺しじゃて。」
彼の様子に安心した、猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、そろそろ遣戸《やりど》の後ろから、にじり出ながら、太郎のすわったのと、すじかいに敷いた畳の上へ、自分も落ちつかない尻《しり》をすえた。
「おぬしを殺して、なんで親殺しになる?」
太郎は、目を窓にやりながら、吐き出すように、こう言った。四角に空を切りぬいた窓の中には、枇杷《びわ》の木が、葉の裏表に日を受けて、明暗さまざまな緑の色を、ひっそりと風のないこずえにあつめている。
「親殺しじゃよ。――なぜと言えばな。沙金《しゃきん》は、わしの義理の子じゃ。されば、つながるおぬしも、子ではないか。」
「じゃ、その子を妻《め》にしているおぬしは、なんだ。畜生かな、それともまた、人間かな。」
老人は、さっきの争いに破れた、水干《すいかん》の袖《そで》を気にしながら、うなるような声で言った。
「畜生でも、親殺しはすまいて。」
太郎は、くちびるをゆがめて、あざわらった。
「相変わらず、達者な口だて。」
「何が達者な口じゃ。」
猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、急に鋭く、太郎の顔をにらめたが、やがてまた、鼻で笑いながら、
「されば、おぬしにきくがな、おぬしは、このわしを、親と思うか。いやさ、親と思う事ができるかよ。」
「きくまでもないわ。」
「できまいな」
「おお、できない。」
「それが手前勝手じゃ。よいか。沙金《しゃきん》はおばばのつれ子じゃよ。が、わしの子ではない。されば、おばばにつれそうわしが、沙金を子じゃと思わねばならぬなら、沙金につれそうおぬしも、わしを親じゃと思わねばなるまいがな。それをおぬしは、わしを親とも思わぬ。思わぬどころか、場合によっては、打ち打擲《ちょうちゃく》もするではないか。そのおぬしが、わしにばかり、沙金を子と思えとは、どういうわけじゃ。妻《め》にして悪いとは、どういうわけじゃ。沙金を妻《め》にするわしが、畜生なら、親を殺そうとするおぬしも、畜生ではないか。」
老人は、勝ち誇った顔色で、しわだらけの人さし指を、相手につきつけるようにしながら、目をかがやかせて、しゃべり立てた。
「どうじゃ。わしが無理か、おぬしが無理か、いかなおぬしにも、このくらいな事はわかるであろう。それもわしとおばばとは、まだわしが、左兵衛府《さひょうえふ》の下人《げにん》をしておったころからの昔なじみじゃ。おばばが、わしをどう思うたか、それは知らぬ。が、わしはおばばを懸想《けそう》していた。」
太郎は、こういう場合、この酒飲みの、狡猾《こうかつ》な、卑しい老人の口から、こういう昔語りを聞こうとは夢にも思っていなかった。いや、むしろ、この老人に、人並みの感情があるかどうか、それさえ疑わしいと、思っていた。懸想した猪熊《いのくま》の爺《おじ》と懸想された猪熊のばばと、――太郎は、おのずから自分の顔に、一脈の微笑が浮かんで来るのを感じたのである。
「そのうちに、わしはおばばに情人《おとこ》がある事を知ったがな。」
「そんなら、おぬしはきらわれたのじゃないか。」
「情人《おとこ》があったとて、わしのきらわれたという、証拠にはならぬ。話の腰を折るなら、もうやめじゃ。」
猪熊の爺は、真顔になって、こう言ったが、すぐまた、ひざをすすめて、太郎のほうへにじり寄りながら、つばをのみのみ、話しだした。
「そのうちに、おばばがその情人《おとこ》の子をはらんだて。が、これはなんでもない。ただ、驚いたのは、その子を生むと、まもなく、おばばの行《ゆ》き方《かた》が、わからなくなって、しもうた事じゃ。人に聞けば、疫病《えやみ》で死んだの、筑紫《つくし》へ下ったのと言いおるわ。あとで聞けば、なんの、奈良坂《ならざか》のしるべのもとへ、一時身を寄せておったげじゃ。が、わしは、それからにわかに、この世が味気なくなってしもうた。されば、酒も飲む、賭博《ばくち》も打つ。ついには、人に誘われて、まんまと強盗にさえ身をおとしたがな。綾《あや》を盗めば綾につけ、錦《にしき》を盗めば、錦につけ、思い出すのは、ただ、おばばの事じゃ。それから十年たち、十五年たって、やっとまたおばばに、めぐり会ってみれば――」
今では全く、太郎と一つ畳にすわりこんだ老人は、ここまで話すと、次第に感情がたかぶって来たせいか、しばらくはただ、涙に頬《ほお》をぬらしながら、口ばかり動かして、黙っている。太郎は、片目をあげて、別人を見るように、相手のべそをかいた顔をながめた。
「めぐり会ってみれば、おばばは、もう昔のおばばではない。わしも、昔のわしでなかったのじゃ。が、つれている子の沙金《しゃきん》を見れば、昔のおばばがまた、帰って来たかと思うほど、おもかげがよう似ているて。されば、わしはこう思うた。今、おばばに別れれば、沙金ともまた別れなければならぬ。もし沙金と別れまいと思えば、おばばといっしょになるばかりじゃ。よし、ならば、おばばを妻《め》にしよう――こう思い切って、持ったのが、この猪熊《いのくま》の痩世帯《やせじょたい》じゃ。………」
猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、泣き顔を、太郎の顔のそばへ持って来ながら、涙声でこう言った。すると、その拍子に、今まで気のつかなかった、酒くさいにおいが、ぷんとする。――太郎は、あっけにとられて、扇のかげに、鼻をかくした。
「されば、昔からきょうの日まで、わしが命にかけて思うたのは、ただ、昔のおばば一人ぎりじゃ。つまりは今の沙金《しゃきん》一人ぎりじゃよ。それを、おぬしは、何かにつけて、わしを畜生じゃなどと言う。このおやじがおぬしは、それほど憎いのか。憎ければ、いっそ殺すがよい。今ここで、殺すがよい。おぬしに殺されれば、わしも本望じゃ。が、よいか、親を殺すからは、おぬしも、畜生じゃぞよ。畜生が畜生を殺す――これは、おもしろかろう。」
涙がかわくに従って、老人はまた、元のように、ふて腐れた悪態《あくたい》をつきながら、しわだらけの人さし指をふり立てた。
「畜生が畜生を殺すのじゃ。さあ殺せ。おぬしは、卑怯者《ひきょうもの》じゃな。ははあ、さっき、わしが阿濃《あこぎ》に薬をくれようとしたら、おぬしが腹を立てたのを見ると、あの阿呆《あほう》をはらませたのも、おぬしらしいぞ。そのおぬしが、畜生でのうて、何が畜生じゃ。」
こう言いながら、老人は、いちはやく、倒れた遣戸《やりど》の向こうへとびのいて、すわと言えば、逃げようとするけはいを示しながら、紫がかった顔じゅうの造作《ぞうさく》を、憎々しくゆがめて見せる。――太郎は、あまりの雑言《ぞうごん》に堪えかねて、立ち上がりながら、太刀《たち》の柄《つか》へ手をかけたが、やめて、くちびるを急に動かすとたちまち相手の顔へ、一塊の痰《たん》をはきかけた。
「おぬしのような畜生には、これがちょうど、相当だわ。」
「畜生呼ばわりは、おいてくれ。沙金《しゃきん》は、おぬしばかりの妻《め》かよ。次郎殿の妻《め》でもないか。されば、弟の妻《め》をぬすむおぬしもやはり、畜生じゃ。」
太郎は、再びこのおやじを殺さなかった事を後悔した。が、同時にまた、殺そうという気の起こる事を恐れもした。そこで、彼は、片目を火のようにひらめかせながら、黙って、席を蹴《け》って去ろうとする――すると、その後ろから、猪熊《いのくま》の爺《おじ》はまた、指をふりふり、罵詈《ばり》を浴びせかけた。
「おぬしは、今の話をほんとうだと思うか。あれは、みんなうそじゃ。ばばが昔なじみじゃというのも、うそなら、沙金がおばばに似ているというのもうそじゃ。よいか。あれは、みんなうそじゃ。が、とがめたくも、おぬしはとがめられまい。わしはうそつきじゃよ。畜生じゃよ。おぬしに殺されそくなった、人でなしじゃよ。………」
老人は、こう唾罵《だば》を飛ばしながら、おいおい、呂律《ろれつ》がまわらなくなって来た。が、なおも濁った目に懸命の憎悪《ぞうお》を集めながら、足を踏み鳴らして、意味のない事を叫びつづける。――太郎は、堪えがたい嫌悪《けんお》の情に襲われて、耳をおおうようにしながら、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》、猪熊《いのくま》の家を出た。外には、やや傾きかかった日がさして、相変わらずその中を、燕《つばくら》が軽々と流れている。――
「どこへ行こう。」
外へ出て、思わずこう小首を傾けた太郎は、ふとさっきまでは、自分が沙金《しゃきん》に会うつもりで、猪熊へ来たのに、気がついた。が、どこへ行ったら、沙金に会えるという、当てもない。
「ままよ。羅生門《らしょうもん》へ行って、日の暮れるのでも待とう。」
彼のこの決心には、もちろん、いくぶん沙金に会えるという望みが、隠れている。沙金は、日ごろから、強盗にはいる夜《よ》には、好んで、男装束《おとこしょうぞく》に身をやつした。その装束や打ち物は、みな羅生門の楼上に、皮子《かわご》へ入れてしまってある。――彼は、心をきめて、小路《こうじ》を南へ、大またに歩きだした。
それから、三条を西へ折れて、耳敏川《みみとがわ》の向こう岸を、四条まで下ってゆく――ちょうど、その四条の大路《おおじ》へ出た時の事である。太郎は、一町《いっちょう》を隔てて、この大路を北へ、立本寺《りゅうほんじ》の築土《ついじ》の下を、話しながら通りかかる、二人の男女《なんにょ》の姿を見た。
朽ち葉色の水干《すいかん》とうす紫の衣《きぬ》とが、影を二つ重ねながら、はればれした笑い声をあとに残して、小路《こうじ》から小路へ通りすぎる。めまぐるしい燕《つばくら》の中に、男の黒鞘《くろざや》の太刀《たち》が、きらりと日に光ったかと思うと、二人はもう見えなくなった。
太郎は、額を曇らせながら、思わず道ばたに足をとめて、苦しそうにつぶやいた。
「どうせみんな畜生だ。」
六
ふけやすい夏の夜《よ》は、早くも亥《い》の上刻《じょうこく》に迫って来た。――
月はまだ上らない。見渡す限り、重苦しいやみの中に、声もなく眠っている京《きょう》の町は、加茂川の水面《みのも》がかすかな星の光をうけて、ほのかに白く光っているばかり、大路小路の辻々《つじつじ》にも、今はようやく灯影《ほかげ》が絶えて、内裏《だいり》といい、すすき原といい、町家《まちや》といい、ことごとく、静かな夜空の下に、色も形もおぼろげな、ただ広い平面を、ただ、際限もなく広げている。それがまた、右京左京《うきょうさきょう》の区別なく、どこも森閑と音を絶って、たまに耳にはいるのは、すじかいに声を飛ばすほととぎすのほかに、何もない。もしその中に一点でも、人なつかしい火がゆらめいて、かすかなものの声が聞こえるとすれば、それは、香の煙のたちこめた大寺《だいじ》の内陣で、金泥《きんでい》も緑青《ろくしょう》も所《ところ》斑《はだら》な、孔雀明王《くじゃくみょおう》の画像を前に、常燈明《じょうとうみょう》の光をたのむ参籠《さんろう》の人々か、さもなくば、四条五条の橋の下で、短夜を芥火《あくたび》の影にぬすむ、こじき法師の群れであろう。あるいはまた、夜な夜な、往来の人をおびやかす朱雀門《すざくもん》の古狐《ふるぎつね》が、瓦《かわら》の上、草の間に、ともすともなくともすという、鬼火のたぐいであるかもしれない。が、そのほかは、北は千本《せんぼん》、南の鳥羽《とば》街道の境《さかい》を尽くして、蚊やりの煙のにおいのする、夜色《やしょく》の底に埋もれながら、河原《かわら》よもぎの葉を動かす、微風もまるで知らないように、沈々としてふけている。
その時、王城の北、朱雀大路《すざくおおじ》のはずれにある、羅生門《らしょうもん》のほとりには、時ならない弦打ちの音が、さながら蝙蝠《こうもり》の羽音のように、互いに呼びつ
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