のうちに、わたしの事もそう言う時が来やしないか。」
「それは、どうだかわかりゃしない。」
 沙金《しゃきん》は、またかん高《だか》い声で、笑った。
「おこったの? じゃ、来ないって言いましょうか。」
「内心女夜叉《ないしんにょやしゃ》さね。お前は。」
 次郎は、顔をしかめながら、足もとの石を拾って、向こうへ投げた。
「そりゃ、女夜叉《にょやしゃ》かもしれないわ。ただ、こんな女夜叉《にょやしゃ》にほれられたのが、あなたの因果だわね。――まだうたぐっているの。じゃわたし、もう知らないからいい。」
 沙金は、こう言って、しばらくじっと、往来を見つめていたが、急に鋭い目を、次郎の上に転じると、たちまち冷ややかな微笑が、くちびるをかすめて、一過した。
「そんなに疑うのなら、いい事を教えてあげましょうか。」
「いい事?」
「ええ」
 女は、顔を次郎のそばへ持って来た。うす化粧のにおいが、汗にまじって、むんと鼻をつく。――次郎は、身のうちがむずがゆいほど、はげしい衝動を感じて、思わず顔をわきへむけた。
「わたしね、あいつにすっかり、話してしまったの。」
「何を?」
「今夜、みんなで藤判官《とうほうがん》の屋敷へ、行くという事を。」
 次郎は、耳を信じなかった。息苦しい官能の刺激も、一瞬の間《あいだ》に消えてしまう。――彼はただ、疑わしげに、むなしく女の顔を見返した。
「そんなに驚かなくたっていいわ。なんでもない事なのよ。」
 沙金《しゃきん》は、やや声を低めて、あざわらうような調子を出した。
「わたしこう言ったの。わたしの寝る部屋《へや》は、あの大路面《おおじめん》の檜垣《ひがき》のすぐそばなんですが、ゆうべその檜垣《ひがき》の外で、きっと盗人でしょう、五六人の男が、あなたの所へはいる相談をしているのが聞こえました。それがしかも、今夜なんです。おなじみがいに、教えてあげましたから、それ相当の用心をしないと、あぶのうござんすよって。だから、今夜は、きっと向こうにも、手くばりがあるわ。あいつも、今人を集めに行ったところなの。二十人や三十人の侍は、くるにちがいなくってよ。」
「どうしてまた、そんなよけいな事をしたのさ。」
 次郎は、まだ落ち着かない様子で、当惑したらしく、沙金《しゃきん》の目をうかがった。
「よけいじゃないわ。」
 沙金は、気味悪く、微笑した。そうして、左の手で、そっと次郎の右の手に、さわりながら、
「あなたのためにしたの。」
「どうして?」
 こう言いながら、次郎の心には、恐ろしいあるものが感じられた。まさか――
「まだわからない? そう言っておいて、太郎さんに、馬を盗む事を頼めば――ね。いくらなんだって、一人じゃかなわないでしょう。いえさ、ほかのものが加勢をしたって、知れたものだわ。そうすれば、あなたもわたしも、いいじゃないの。」
 次郎は、全身に水を浴びせられたような心もちがした。
「兄きを殺す!」
 沙金《しゃきん》は、扇をもてあそびながら、素直にうなずいた。
「殺しちゃ悪い?」
「悪いよりも――兄きを罠《わな》にかけて――」
「じゃあなた殺せて?」
 次郎は、沙金の目が、野猫《のねこ》のように鋭く、自分を見つめているのを感じた。そうして、その目の中に、恐ろしい力があって、それが次第に自分の意志を、麻痺《まひ》させようとするのを感じた。
「しかし、それは卑怯《ひきょう》だ。」
「卑怯でも、しかたがなくはない?」
 沙金《しゃきん》は、扇をすてて、静かに両手で、次郎の右の手をとらえながら、追窮した。
「それも、兄き一人やるのならいいが、仲間を皆、あぶない目に会わせてまで――」
 こう言いながら、次郎は、しまったと思った。狡猾《こうかつ》な女はもちろん、この機会を見のがさない。
「一人やるのならいいの? なぜ?」
 次郎は、女の手をはなして、立ち上がった。そうして、顔の色を変えたまま、黙って、沙金《しゃきん》の前を、右左に歩き出した。
「太郎さんを殺していいんなら、仲間なんぞ何人殺したって、いいでしょう。」
 沙金は、下から次郎の顔を見上げながら、一句を射た。
「おばばはどうする?」
「死んだら、死んだ時の事だわ。」
 次郎は、立ち止まって、沙金の顔を見おろした。女の目は、侮蔑《ぶべつ》と愛欲とに燃えて炭火のように熱を持っている。
「あなたのためなら、わたしたれを殺してもいい。」
 このことばの中には、蝎《さそり》のように、人を刺すものがある。次郎は、再び一種の戦慄《せんりつ》を感じた。
「しかし、兄きは――」
「わたしは、親も捨てているのじゃない?」
 こう言って、沙金は、目を落とすと、急に張りつめた顔の表情がゆるんで、焼け砂の上へ、日に光りながらはらはらと涙が落ちた。
「もうあいつに話してしまったのに、――今さら取り返しはつきはしない。――そんな事がわかったら、わたしは――わたしは、仲間に――太郎さんに殺されてしまうじゃないの。」
 その切れ切れなことばと共に、次郎の心には、おのずから絶望的な勇気が、わいてくる。血の色を失った彼は、黙って、土にひざをつきながら、冷たい両手に堅く、沙金《しゃきん》の手をとらえた。
 彼らは二人とも、その握りあう手のうちに、恐ろしい承諾の意を感じたのである。

       五

 白い布をかかげて、家の中に一足ふみこんだ太郎は、意外な光景に驚かされた。――
 見ると、広くもない部屋《へや》の中には、廚《くりや》へ通う遣戸《やりど》が一枚、斜めに網代屏風《あじろびょうぶ》の上へ、倒れかかって、その拍子にひっくり返ったものであろう、蚊やりをたく土器《かわらけ》が、二つになってころがりながら、一面にあたりへ、燃え残った青松葉を、灰といっしょにふりまいている。その灰を頭から浴びて、ちぢれ髪の、色の悪い、肥《ふと》った、十六七の下衆女《げすおんな》が一人、これも酒肥《さかぶと》りに肥《ふと》った、はげ頭の老人に、髪の毛をつかまれながら、怪しげな麻の単衣《ひとえ》の、前もあらわに取り乱したまま、足をばたばた動かして、気違いのように、悲鳴を上げる――と、老人は、左手に女の髪をつかんで、右手に口の欠けた瓶子《へいし》を、空ざまにさし上げながら、その中にすすけた液体を、しいて相手の口へつぎこもうとする。が、液体は、いたずらに女の顔を、目と言わず、鼻と言わず、うす黒く横流れするだけで、口へは、ほとんどはいらないらしい。そこで老人は、いよいよ、気をいらって無理に女の口を、割ろうとする。女は、とられた髪も、ぬけるほど強く、頭を振って、一滴もそれを飲むまいとする。手と手と、足と足とが、互いにもつれたり、はなれたりして、明るい所から、急にうす暗い家の中へはいった、太郎の目には、どちらがどちらのからだとも、わからない。が、二人がたれだという事は、もちろん一目見て、それと知れた。――
 太郎は、草履《ぞうり》を脱ぐ間《ま》ももどかしそうに、あわただしく部屋《へや》の中へおどりこむと、とっさに老人の右の手をつかんで、苦もなく瓶子《へいし》をもぎはなしながら、怒気を帯びて、一喝《いっかつ》した。
「何をする?」
 太郎の鋭いこのことば、たちまちかみつくような、老人のことばで答えられた。
「おぬしこそ、何をする。」
「おれか。おれならこうするわ。」
 太郎は、瓶子《へいし》を投げすてて、さらに相手の左の手を、女の髪からひき離すと、足をあげて老人を、遣戸《やりど》の上へ蹴倒《けたお》した。不意の救いに驚いたのであろう、阿濃《あこぎ》はあわてて、一二|間《けん》這《は》いのいたが、老人の後《しりえ》へ倒れたのを見ると、神仏《かみほとけ》をおがむように、太郎の前へ手を合わせて、震えながら頭を下げた。と思うと、乱れた髪もつくろわずに、脱兎《だっと》のごとく身をかわして、はだしのまま、縁を下へ、白い布をひらりとくぐる。――猛然として、追いすがろうとする猪熊《いのくま》の爺《おじ》を、太郎が再び一蹴《いっしゅう》して、灰の中に倒した時には、彼女はすでに息を切らせて、枇杷《びわ》の木の下を北へ、こけつまろびつして、走っていた。………
「助けてくれ。人殺しじゃ。」
 老人は、こうわめきながら、始めの勢いにも似ず、網代屏風《あじろびょうぶ》をふみ倒して、廚《くりや》のほうへ逃げようとする。――太郎は、すばやく猿臂《えんび》をのべて、浅黄の水干《すいかん》の襟上《えりがみ》をつかみながら、相手をそこへ引き倒した。
「人殺し。人殺し。助けてくれ。親殺しじゃ。」
「ばかな事を。たれがおぬしなぞ殺すものか。」
 太郎は、ひざの下に老人を押し伏せたまま、こう高らかに、あざわらった。が、それと同時に、このおやじを殺したいという欲望が、おさえがたいほど強く、起こって来た。殺すのには、もちろんなんのめんどうもない。ただ、一突き――あの赤く皮のたるんでいる頸《うなじ》を、ただ、一突き突きさえすれば、それでもう万事が終わってしまう。突き通した太刀《たち》のきっさきが、畳へはいる手答えと、その太刀の柄《つか》へ感じて来る、断末魔の身もだえと、そうして、また、その太刀を押しもどす勢いで、あふれて来る血のにおいと、――そういう想像は、おのずから太郎の手を、葛巻《つづらま》きの太刀の柄《つか》へのばさせた。
「うそじゃ。うそじゃ。おぬしは、いつもわしを殺そうと思うている。――やい、たれか助けてくれ。人殺しじゃ。親殺しじゃ。」
 猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、相手の心を見通したのか、またひとしきりはね起きようとして、すまいながら、必死になって、わめき立てた。
「おぬしは、なんで阿濃《あこぎ》を、あのような目にあわせた。さあそのしさいを言え。言わねば……」
「言う。言う。――言うがな。言ったあとでも、おぬしの事じゃ。殺さないものでも、なかろう。」
「うるさい。言うか、言わぬか。」
「言う。言う。言う。が、まず、そこを放してくれ。これでは、息がつまって、口がきけぬわ。」
 太郎は、それを耳にもかけないように、殺気立った声で、いらだたしく繰り返した。
「言うか、言わぬか。」
「言う。」と、猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、声をふりしぼって、まだはね返そうと、もがきながら、「言うともな。あれはただ、わしが薬をのましょうと思うたのじゃ。それを、あの阿濃《あこぎ》の阿呆《あほう》めが、どうしても飲みおらぬ。されば、ついわしも手荒な事をした。それだけじゃ。いや、まだある。薬をこしらえおったのは、おばばじゃ。わしの知った事ではない。」
「薬? では、堕胎薬《おろしぐすり》だな。いくら阿呆でも、いやがる者をつかまえて、非道な事をするおやじだ。」
「それ見い。言えと言うから、言えば、なおおぬしは、わしを殺す気になるわ。人殺し。極道《ごくどう》。」
「たれがおぬしを殺すと言った?」
「殺さぬ気なら、なぜおぬしこそ、太刀《たち》の柄《つか》へ手をかけているのじゃ。」
 老人は、汗にぬれたはげ頭を仰向《あおむ》けて、上目に太郎を見上げながら、口角に泡《あわ》をためて、こう叫んだ。太郎は、はっと思った。殺すなら、今だという気が、心頭をかすめて、一閃《いっせん》する。彼は思わず、ひざに力を入れながら、太刀《たち》の柄《つか》を握りしめて、老人の頸《うなじ》のあたりをじっと見た。わずかに残った胡麻塩《ごましお》の毛が、後頭部を半ばおおった下に、二筋の腱《けん》が、赤い鳥肌《とりはだ》の皮膚のしわを、そこだけ目だたないように、のばしている。――太郎は、その頸《うなじ》を見た時に、不思議な憐憫《れんびん》を感じだした。
「人殺し。親殺し。うそつき。親殺し。親殺し。」
 猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、つづけさまに絶叫しながら、ようやく、太郎のひざの下からはね起きた。はね起きると、すばやく倒れた遣戸《やりど》を小盾《こだて》にとって、きょろきょろ、目を左右にくばりながら、すきさえあれば、逃げようとする。――その一面に赤く地ばれのした、目も鼻もゆがんでいる、狡猾《こうかつ》らしい顔を見ると、太郎は
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