る。いつかは、そうして必ず。ああ、おれの失うのは、ひとり沙金ばかりではない。弟もいっしょに失うのだ。そうして、そのかわりに、次郎と言う名の敵《かたき》ができる。――おれは、敵《かたき》には用捨しない。敵《かたき》も、おれに用捨はしないだろう。そうなれば、落ち着くところは、今からあらかじめわかっている。弟を殺すか、おれが殺されるか。……)

 太郎は、死人《しびと》のにおいが、鋭く鼻を打ったのに、驚いた。が、彼の心の中の死が、におったというわけではない。見ると、猪熊《いのくま》の小路のあたり、とある網代《あじろ》の塀《へい》の下に腐爛《ふらん》した子供の死骸《しがい》が二つ、裸のまま、積み重ねて捨ててある。はげしい天日《てんぴ》に、照りつけられたせいか、変色した皮膚のところどころが、べっとりと紫がかった肉を出して、その上にはまた青蝿《あおばえ》が、何匹となく止まっている。そればかりではない。一人の子供のうつむけた顔の下には、もう足の早い蟻《あり》がついた。――
 太郎は、まのあたりに、自分の行く末を見せつけられたような心もちがした。そうして、思わず下くちびるを堅くかんだ。――
「ことに、このごろは、沙金《しゃきん》もおれを避けている。たまに会っても、いい顔をした事は、一度もない。時々はおれに面《めん》と向かって、悪口《あっこう》さえきく事がある。おれはそのたびに腹を立てた。打った事もある。蹴《け》った事もある。が、打っているうちに、蹴っているうちに、おれはいつでも、おれ自身を折檻《せっかん》しているような心もちがした。それも無理はない。おれの二十年の生涯《しょうがい》は、沙金のあの目の中に宿っている。だから沙金を失うのは、今までのおれを失うのと、変わりはない。
 沙金を失い、弟を失い、そうしてそれとともにおれ自身を失ってしまう。おれはすべてを失う時が来たのかもしれない。……)

 そう思ううちに、彼は、もう猪熊《いのくま》のばばの家の、白い布をぶら下げた戸口へ来た。まだここまでも、死人《しびと》のにおいは、伝わって来るが、戸口のかたわらに、暗い緑の葉をたれた枇杷《びわ》があって、その影がわずかながら、涼しく窓に落ちている。この木の下を、この戸口へはいった事は、何度あるかわからない。が、これからは?
 太郎は、急にある気づかれを感じて、一味の感傷にひたりながら、その目に涙をうかべて、そっと戸口へ立ちよった。すると、その時である。家の中から、たちまちけたたましい女の声が、猪熊《いのくま》の爺《おじ》の声に交じって、彼の耳を貫ぬいた。沙金《しゃきん》なら、捨ててはおけない。
 彼は、入り口の布をあげて、うすぐらい家の中へ、せわしく一足ふみ入れた。

       四

 猪熊のばばに別れると、次郎は、重い心をいだきながら、立本寺《りゅうほんじ》の門の石段を、一つずつ数えるように上がって、そのところどころ剥落《はくらく》した朱塗りの丸柱の下へ来て、疲れたように腰をおろした。さすがの夏の日も、斜めにつき出した、高い瓦《かわら》にさえぎられて、ここまではさして来ない。後ろを見ると、うす暗い中に、一体の金剛力士が青蓮花《あおれんげ》を踏みながら、左手の杵《きね》を高くあげて、胸のあたりに燕《つばくら》の糞《ふん》をつけたまま、寂然《せきぜん》と境内《けいだい》の昼を守っている。――次郎は、ここへ来て、始めて落ち着いて、自分の心もちが考えられるような気になった。
 日の光は、相変わらず目の前の往来を、照り白《しら》ませて、その中にとびかう燕《つばくら》の羽を、さながら黒繻子《くろじゅす》か何かのように、光らせている。大きな日傘《ひがさ》をさして、白い水干《すいかん》を着た男が一人、青竹の文挾《ふばさみ》にはさんだ文《ふみ》を持って、暑そうにゆっくり通ったあとは、向こうに続いた築土《ついじ》の上へ、影を落とす犬もない。
 次郎は、腰にさした扇をぬいて、その黒柿《くろがき》の骨を、一つずつ指で送ったり、もどしたりしながら、兄と自分との関係を、それからそれへ、思い出した。――
 なんで自分は、こう苦しまなければ、ならないのであろう。たった一人の兄は、自分を敵《かたき》のように思っている。顔を合わせるごとに、こちらから口をきいても、浮かない返事をして、話の腰を折ってしまう。それも、自分と沙金《しゃきん》とが、今のような事になってみれば、無理のない事に相違ない。が、自分は、あの女に会うたびに、始終兄にすまないと思っている。別して、会ったのちのさびしい心もちでは、よく兄がいとしくなって、人知れない涙もこぼしこぼしした。現に、一度なぞは、このまま、兄にも沙金にも別れて、東国へでも下ろうとさえ、思った事がある。そうしたら、兄も自分を憎まなくなるだろうし、自分も沙金を忘れられるだろう。そう思って、よそながら暇《いとま》ごいをするつもりで、兄の所へ会いにゆくと、兄はいつも、そっけなく、自分をあしらった。そうして、沙金に会うと、――今度は自分が、せっかくの決心を忘れてしまう。が、そのたびに、自分はどのくらい、自分自身を責めた事であろう。
 しかし、兄には、自分のこの苦しみがわからない。ただいちずに、自分を、恋の敵《かたき》だと思っている。自分は、兄にののしられてもいい。顔につばきされてもいい。あるいは場合によっては、殺されてもいい。が、自分が、どのくらい自分の不義を憎んでいるか、どのくらい兄に同情しているか、それだけは、察していてもらいたい。その上でならば、どんな死にざまをするにしても、兄の手にかかれば、本望だ。いや、むしろ、このごろの苦しみよりは、一思いに死んだほうが、どのくらいしあわせだかわからない。
 自分は、沙金《しゃきん》に恋をしている。が、同時に憎んでもいる。あの女の多情な性質は、考えただけでも、腹立たしい。その上に、絶えずうそをつく。それから、兄や自分でさえためらうような、ひどい人殺しも、平気でする。時々、自分は、あの女のみだらな寝姿をながめながら、どうして、自分がこんな女に、ひかされるのだろうと思ったりした。ことに、見ず知らずの男にも、なれなれしく肌《はだ》を任せるのを見た時には、いっそ自分の手で、殺してやろうかという気にさえなった。それほど、自分は、沙金を憎んでいる。が、あの女の目を見ると、自分はやっぱり、誘惑に陥ってしまう。あの女のように、醜い魂と、美しい肉身とを持った人間は、ほかにいない。
 この自分の憎しみも、兄にはわかっていないようだ。いや、元来兄は、自分のように、あの女の獣のような心を、憎んではいないらしい。たとえば、沙金《しゃきん》とほかの男との関係を見るにしても、兄と自分とは全く目がちがう。兄は、あの女がたれといっしょにいるのを見ても、黙っている。あの女の一時の気まぐれは、気まぐれとして、許しているらしい。が、自分は、そういかない。自分にとっては、沙金が肌身《はだみ》を汚《けが》す事は、同時に沙金が心を汚す事だ。あるいは心を汚すより、以上の事のように思われる。もちろん自分には、あの女の心が、ほかの男に移るのも許されない。が、肌身をほかの男に任せるのは、それよりもなお、苦痛である。それだからこそ、自分は兄に対しても、嫉妬《しっと》をする。すまないとは思いながら、嫉妬をする。してみると、兄と自分との恋は、まるでちがう考えが、元になっているのではあるまいか。そうしてそのちがいが、よけい二人の仲を、悪くするのではあるまいか。………
 次郎は、ぼんやり往来をながめながら、こんな事をしみじみと考えた。すると、ちょうどその時である。突然、けたたましい笑い声が、まばゆい日の光を動かして、往来のどちらかから聞こえて来た。と思うと、かん高《だか》い女の声が、舌のまわらない男の声といっしょになって、人もなげに、みだらな冗談を言いかわして来る。次郎は、思わず扇を腰にさして、立ち上がった。
 が、柱の下をはなれて、まだ石段へ足をおろすかおろさないうちに、小路《こうじ》を南へ歩いて来た二人の男女《なんにょ》が、彼の前を通りかかった。
 男は、樺桜《かばざくら》の直垂《ひたたれ》に梨打《なしうち》の烏帽子《えぼし》をかけて、打ち出しの太刀《たち》を濶達《かったつ》に佩《は》いた、三十ばかりの年配で、どうやら酒に酔っているらしい。女は、白地にうす紫の模様のある衣《きぬ》を着て、市女笠《いちめがさ》に被衣《かずき》をかけているが、声と言い、物ごしと言い、紛れもない沙金《しゃきん》である。――次郎は、石段をおりながら、じっとくちびるをかんで、目をそらせた。が、二人とも、次郎には、目をかける様子がない。
「じゃよくって。きっと忘れちゃいやよ。」
「大丈夫だよ。おれがひきうけたからは、大船《おおぶね》に乗った気でいるがいい」
「だって、わたしのほうじゃ命がけなんですもの。このくらい、念を押さなくちゃしようがないわ。」
 男は赤ひげの少しある口を、咽《のど》まで見えるほど、あけて笑いながら、指で、ちょいと沙金の頬《ほお》を突っついた。
「おれのほうも、これで命がけさ。」
「うまく言っているわ。」
 二人は、寺の門の前を通りすぎて、さっき次郎が猪熊《いのくま》のばばと別れた辻《つじ》まで行くと、そこに足をとめたまましばらくは、人目も恥じず、ふざけ合っていたが、やがて、男は、振りかえり振りかえり、何かしきりにからかいながら、辻を東へ折れてしまう。女は、くびすをめぐらして、まだくすくす笑いながら、またこっちへ帰って来る。――次郎は、石段の下にたたずんで、うれしいのか情けないのか、わからないような感情に動かされながら、子供らしく顔を赤らめて、被衣《かずき》の中からのぞいている、沙金《しゃきん》の大きな黒い目を迎えた。
「今のやつを見た?」
 沙金は、被衣《かずき》を開いて、汗ばんだ顔を見せながら、笑い笑い、問いかけた。
「見なくってさ。」
「あれはね。――まあここへかけましょう。」
 二人は、石段の下の段に、肩をならべて、腰をおろした。幸い、ここには門の外に、ただ一本、細い幹をくねらした、赤松の影が落ちている。
「あれは、藤判官《とうほうがん》の所の侍なの。」
 沙金は、石段の上に腰をおろすかおろさないのに、市女笠《いちめがさ》をぬいで、こう言った。小柄な、手足の動かし方に猫《ねこ》のような敏捷《びんしょう》さがある、中肉《ちゅうにく》の、二十五六の女である。顔は、恐ろしい野性と異常な美しさとが、一つになったとでもいうのであろう。狭い額とゆたかな頬《ほお》と、あざやかな歯とみだらなくちびると、鋭い目と鷹揚《おうよう》な眉《まゆ》と、――すべて、一つになり得そうもないものが、不思議にも一つになって、しかもそこに、爪《つめ》ばかりの無理もない。が、中でもみごとなのは、肩にかけた髪で、これは、日の光のかげんによると、黒い上につややかな青みが浮く。さながら、烏《からす》の羽根と違いがない。次郎は、いつ見ても変わらない女のなまめかしさを、むしろ憎いように感じたのである。
「そうして、お前さんの情人《おとこ》なんだろう。」
 沙金は、目を細くして笑いながら、無邪気らしく、首をふった。
「あいつのばかと言ったら、ないのよ。わたしの言う事なら、なんでも、犬のようにきくじゃないの。おかげで、何もかも、すっかりわかってしまった。」
「何がさ。」
「何がって、藤判官《とうほうがん》の屋敷の様子がよ。そりゃひとかたならないおしゃべりなんでしょう。さっきなんぞは、このごろ、あすこで買った馬の話まで、話して聞かしたわ。――そうそう、あの馬は太郎さんに頼んで盗ませようかしら。陸奥出《みちのくで》の三才駒《さんさいごま》だっていうから、まんざらでもないわね。」
「そうだ。兄きなら、なんでもお前の御意《ぎょい》次第だから。」
「いやだわ。やきもちをやかれるのは、わたし大きらい。それも、太郎さんなんぞ、――そりゃはじめは、わたしのほうでも、少しはどうとか思ったけれど、今じゃもうなんでもないわ。」
「そ
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