「おぬしこそ、何をする。」
「おれか。おれならこうするわ。」
 太郎は、瓶子《へいし》を投げすてて、さらに相手の左の手を、女の髪からひき離すと、足をあげて老人を、遣戸《やりど》の上へ蹴倒《けたお》した。不意の救いに驚いたのであろう、阿濃《あこぎ》はあわてて、一二|間《けん》這《は》いのいたが、老人の後《しりえ》へ倒れたのを見ると、神仏《かみほとけ》をおがむように、太郎の前へ手を合わせて、震えながら頭を下げた。と思うと、乱れた髪もつくろわずに、脱兎《だっと》のごとく身をかわして、はだしのまま、縁を下へ、白い布をひらりとくぐる。――猛然として、追いすがろうとする猪熊《いのくま》の爺《おじ》を、太郎が再び一蹴《いっしゅう》して、灰の中に倒した時には、彼女はすでに息を切らせて、枇杷《びわ》の木の下を北へ、こけつまろびつして、走っていた。………
「助けてくれ。人殺しじゃ。」
 老人は、こうわめきながら、始めの勢いにも似ず、網代屏風《あじろびょうぶ》をふみ倒して、廚《くりや》のほうへ逃げようとする。――太郎は、すばやく猿臂《えんび》をのべて、浅黄の水干《すいかん》の襟上《えりがみ》をつかみながら、
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