涙をうかべて、そっと戸口へ立ちよった。すると、その時である。家の中から、たちまちけたたましい女の声が、猪熊《いのくま》の爺《おじ》の声に交じって、彼の耳を貫ぬいた。沙金《しゃきん》なら、捨ててはおけない。
 彼は、入り口の布をあげて、うすぐらい家の中へ、せわしく一足ふみ入れた。

       四

 猪熊のばばに別れると、次郎は、重い心をいだきながら、立本寺《りゅうほんじ》の門の石段を、一つずつ数えるように上がって、そのところどころ剥落《はくらく》した朱塗りの丸柱の下へ来て、疲れたように腰をおろした。さすがの夏の日も、斜めにつき出した、高い瓦《かわら》にさえぎられて、ここまではさして来ない。後ろを見ると、うす暗い中に、一体の金剛力士が青蓮花《あおれんげ》を踏みながら、左手の杵《きね》を高くあげて、胸のあたりに燕《つばくら》の糞《ふん》をつけたまま、寂然《せきぜん》と境内《けいだい》の昼を守っている。――次郎は、ここへ来て、始めて落ち着いて、自分の心もちが考えられるような気になった。
 日の光は、相変わらず目の前の往来を、照り白《しら》ませて、その中にとびかう燕《つばくら》の羽を、さな
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