このごろは、沙金《しゃきん》もおれを避けている。たまに会っても、いい顔をした事は、一度もない。時々はおれに面《めん》と向かって、悪口《あっこう》さえきく事がある。おれはそのたびに腹を立てた。打った事もある。蹴《け》った事もある。が、打っているうちに、蹴っているうちに、おれはいつでも、おれ自身を折檻《せっかん》しているような心もちがした。それも無理はない。おれの二十年の生涯《しょうがい》は、沙金のあの目の中に宿っている。だから沙金を失うのは、今までのおれを失うのと、変わりはない。
 沙金を失い、弟を失い、そうしてそれとともにおれ自身を失ってしまう。おれはすべてを失う時が来たのかもしれない。……)

 そう思ううちに、彼は、もう猪熊《いのくま》のばばの家の、白い布をぶら下げた戸口へ来た。まだここまでも、死人《しびと》のにおいは、伝わって来るが、戸口のかたわらに、暗い緑の葉をたれた枇杷《びわ》があって、その影がわずかながら、涼しく窓に落ちている。この木の下を、この戸口へはいった事は、何度あるかわからない。が、これからは?
 太郎は、急にある気づかれを感じて、一味の感傷にひたりながら、その目に
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