見えない。ただ、彼をいだいている兄の顔が、――半面に月の光をあびて、じっと行く手を見つめている兄の顔が、やさしく、おごそかに映っている。彼は、限りない安息が、おもむろに心を満たして来るのを感じた。母のひざを離れてから、何年にも感じた事のない、静かな、しかも力強い安息である。――
「にいさん。」
 馬上にある事も忘れたように、次郎はその時、しかと兄をいだくと、うれしそうに微笑しながら、頬《ほお》を紺の水干《すいかん》の胸にあてて、はらはらと涙を落としたのである。
 半時《はんとき》ののち、人通りのない朱雀《すざく》の大路《おおじ》を、二人は静かに馬を進めて行った。兄も黙っていれば、弟も口をきかない。しんとした夜は、ただ馬蹄《ばてい》の響きにこだまをかえして、二人の上の空には涼しい天の川がかかっている。

       八

 羅生門《らしょうもん》の夜《よ》は、まだ明けない。下から見ると、つめたく露を置いた甍《いらか》や、丹塗《にぬ》りのはげた欄干に、傾きかかった月の光が、いざよいながら、残っている。が、その門の下は、斜めにつき出した高い檐《のき》に、月も風もさえぎられて、むし暑い暗がりが、絶えまなく藪蚊《やぶか》に刺されながら、酸《す》えたようによどんでいる。藤判官《とうほうがん》の屋敷から、引き揚げてきた偸盗《ちゅうとう》の一群は、そのやみの中にかすかな松明《たいまつ》の火をめぐりながら、三々五々、あるいは立ちあるいは伏し、あるいは丸柱の根がたにうずくまって、さっきから、それぞれけがの手当てに忙《いそがわ》しい。
 中でも、いちばん重手《おもで》を負ったのは、猪熊《いのくま》の爺《おじ》である。彼は、沙金《しゃきん》の古い袿《うちぎ》を敷いた上に、あおむけに横たわって、半ば目をつぶりながら、時々ものにおびえるように、しわがれた声で、うめいている。一時《ひととき》の間《あいだ》、ここにこうしているのか、それとも一年も前から同じように寝ているのか、彼の困憊《こんぱい》した心には、それさえ時々はわからない。目の前には、さまざまな幻が、瀕死《ひんし》の彼をあざけるように、ひっきりなく徂来《そらい》すると、その幻と、現在門の下で起こっている出来事とが、彼にとっては、いつか全く同一な世界になってしまう。彼は、時と所とを分かたない、昏迷《こんめい》の底に、その醜い一生を、正確に、しかも理性を超越したある順序で、まざまざと再び、生活した。
「やい、おばば、おばばはどうした。おばば。」
 彼は、暗《やみ》から生まれて、暗《やみ》へ消えてゆく恐ろしい幻に脅かされて、身をもだえながら、こううなった。すると、かたわらから額の傷を汗衫《かざみ》の袖《そで》で包んだ、交野《かたの》の平六が顔を出して、
「おばばか。おばばはもう十万億土へ行ってしもうた。おおかた蓮《はちす》の上でな、おぬしの来るのを、待ち焦がれている事じゃろう。」
 言いすてて、自分の冗談を、自分でからからと笑いながら、向こうのすみに、真木島《まきのしま》の十郎の腿《もも》のけがの手当をしている、沙金《しゃきん》のほうをふり返って、声をかけた。
「お頭《かしら》、おじじはちとむずかしいようじゃ。苦しめるだけ、殺生《せっしょう》じゃて。わしがとどめを刺してやろうかと思うがな。」
 沙金は、あでやかな声で、笑った。
「冗談じゃないよ。どうせ死ぬものなら、自然に死なしておやりな。」
「なるほどな、それもそうじゃ。」
 猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、この問答を聞くと、ある予期と恐怖とに襲われて、からだじゅうが一時に凍るような心もちがした。そうして、また大きな声でうなった。平六と同じような理由で、敵には臆病《おくびょう》な彼も、今までに何度、致死期《ちしご》の仲間の者をその鉾《ほこ》の先で、とどめを刺したかわからない。それも多くは、人を殺すという、ただそれだけの興味から、あるいは自分の勇気を人にも自分にも示そうとする、ただそれだけの目的から、進んでこの無残なしわざをあえてした。それが今は――
 と、たれか、彼の苦しみも知らないように、灯《ひ》の陰で一人、鼻歌をうたう者がある。
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いたち笛ふき
猿《さる》かなず
いなごまろは拍子うつ
きりぎりす
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 ぴしゃりと、蚊をたたく音が、それに次いで聞こえる。中には「ほう、やれ」と拍子をとったものもあった。二三人が、肩をゆすったけはいで、息のつまったような笑い声を立てる。――猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、総身《そうみ》をわなわなふるわせながら、まだ生きているという事実を確かめたいために、重い※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》を開いて、じっとともし火の光を見た。灯《ともし》は、その炎のまわりに無
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