を見た。次郎も片手に太刀《たち》をかざしながら、項《うなじ》をそらせて、兄を見た。そうして刹那《せつな》に二人とも、相手の瞳《ひとみ》の奥にひそんでいる、恐ろしいものを感じ合った。が、それは、文字どおり刹那である。馬は、吠《ほ》えたける犬の群れに、脅かされたせいであろう、首を空ざまにつとあげると、前足で大きな輪をかきながら、前よりもすみやかに、空へ跳《おど》った。あとには、ただ、濛々《もうもう》としたほこりが、夜空に白く、ひとしきり柱になって、舞い上がる。次郎は、依然として、野犬の群れの中に、傷をこうむったまま、立ちすくんだ。……
 太郎は――一時に、色を失った太郎の顔には、もうさっきの微笑の影はない。彼の心の中では、何ものかが、「走れ、走れ」とささやいている。ただ、一時《いっとき》、ただ、半時《はんとき》、走りさえすれば、それで万事が休してしまう。彼のする事を、いつかしなくてはならない事を、犬が代わってしてくれるのである。
「走れ、なぜ走らない?」ささやきは、耳を離れない。そうだ。どうせいつかしなくてはならない事である。おそいと早いとの相違がなんであろう。もし弟と自分の位置を換えたにしても、やはり弟は自分のしようとする事をするに違いない。「走れ。羅生門《らしょうもん》は遠くはない。」太郎は、片目に熱を病んだような光を帯びて、半ば無意識に、馬の腹を蹴《け》った。馬は、尾と鬣《たてがみ》とを、長く風になびかせながら、ひづめに火花を散らして、まっしぐらに狂奔する。一町二町月明かりの小路は、太郎の足の下で、急湍《きゅうたん》のように後ろへ流れた。
 するとたちまちまた、彼のくちびるをついて、なつかしいことばが、あふれて来た。「弟」である。肉身の、忘れる事のできない「弟」である。太郎は、かたく手綱《たづな》を握ったまま、血相を変えて歯がみをした。このことばの前には、いっさいの分別が眼底を払って、消えてしまう。弟か沙金《しゃきん》かの、選択をしいられたわけではない。直下《じきげ》にこのことばが電光のごとく彼の心を打ったのである。彼は空も見なかった。道も見なかった。月はなおさら目にはいらなかった。ただ見たのは、限りない夜である。夜に似た愛憎の深みである。太郎は、狂気のごとく、弟の名を口外に投げると、身をのけざまに翻して、片手の手綱《たづな》を、ぐいと引いた。見る見る、馬の頭《かしら》が、向きを変える。と、また雪のような泡《あわ》が、栗毛《くりげ》の口にあふれて、蹄《ひづめ》は、砕けよとばかり、大地を打った。――一瞬ののち、太郎は、惨として暗くなった顔に、片目を火のごとくかがやかせながら、再び、もと来たほうへまっしぐらに汗馬《かんば》を跳《おど》らせていたのである。
「次郎。」
 近づくままに、彼はこう叫んだ。心の中に吹きすさぶ感情のあらしが、このことばを機会として、一時に外へあふれたのであろう。その声は、白燃鉄《はくねんてつ》を打つような響きを帯びて、鋭く次郎の耳を貫ぬいた。
 次郎は、きっと馬上の兄を見た。それは日ごろ見る兄ではない。いや、今しがた馬を飛ばせて、いっさんに走り去った兄とさえ、変わっている。険しくせまった眉《まゆ》に、かたく、下くちびるをかんだ歯に、そうしてまた、怪しく熱している片目に、次郎は、ほとんど憎悪に近い愛が、――今まで知らなかった、不思議な愛が燃え立っているのを見たのである。
「早く乗れ。次郎。」
 太郎は、群がる犬の中に、隕石《いんせき》のような勢いで、馬を乗り入れると、小路を斜めに輪乗りをしながら、叱咤《しった》するような声で、こう言った。もとより躊躇《ちゅうちょ》に、時を移すべき場合ではない。次郎は、やにわに持っていた太刀《たち》を、できるだけ遠くへほうり投げると、そのあとを追って、頭をめぐらす野犬のすきをうかがって、身軽く馬の平首へおどりついた。太郎もまたその刹那《せつな》に猿臂《えんび》をのばし、弟の襟上《えりがみ》をつかみながら、必死になって引きずり上げる。――馬の頭《かしら》が、鬣《たてがみ》に月の光を払って、三たび向きを変えた時、次郎はすでに馬背にあって、ひしと兄の胸をいだいていた。
 と、たちまち一頭、血みどろの口をした黒犬が、すさまじくうなりながら、砂を巻いて鞍壺《くらつぼ》へ飛びあがった。とがった牙《きば》が、危うく次郎のひざへかかる。そのとたんに、太郎は、足をあげて、したたか栗毛《くりげ》の腹を蹴《け》った。馬は、一声いななきながら、早くも尾を宙に振るう。――その尾の先をかすめながら、犬は、むなしく次郎の脛布《はばき》を食いちぎって、うずまく獣の波の中へ、まっさかさまに落ちて行った。
 が、次郎は、それをうつくしい夢のように、うっとりした目でながめていた。彼の目には、天も見えなければ、地も
前へ 次へ
全29ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング