あろう。月明かりにすかして見ると、赤黒いものが一すじ、汗ににじんで、左の小鬢《こびん》から流れている。が、死に身になった次郎には、その痛みも気にならない。彼は、ただ、色を失った額に、ひいでた眉《まゆ》を一文字にひそめながら、あたかも太刀《たち》に使われる人のように、烏帽子《えぼし》も落ち、水干《すいかん》も破れたまま、縦横に刃《やいば》を交えているのである。
それがどのくらい続いたか、わからない。が、やがて、上段に太刀をふりかざした侍の一人が、急に半身を後ろへそらせて、けたたましい悲鳴をあげたと思うと、次郎の太刀は、早くもその男の脾腹《ひばら》を斜めに、腰のつがいまで切りこんだのであろう。骨を切る音が鈍く響いて、横に薙《な》いだ太刀の光が、うすやみをやぶってきらりとする。――と、その太刀が宙におどって、もう一人の侍の太刀を、ちょうと下から払ったと見る間に、相手は肘《ひじ》をしたたか切られて、やにわに元《もと》来たほうへ、敗走した。それを次郎が追いすがりざまに、切ろうとしたのと、狩犬の一頭が鞠《まり》のように身をはずませて、彼の手もとへかぶりついたのとが、ほとんど、同時の働きである。彼は、一足あとへとびのきながら、ふりむかった血刀の下に、全身の筋肉が一時にゆるむような気落ちを感じて、月に黒く逃げてゆく相手の後ろ姿を見送った。そうしてそれと共に、悪夢からさめた人のような心もちで、今自分のいる所が、ほかならない立本寺《りゅうほんじ》の門前だという事に気がついた。――
これから半刻《はんとき》ばかり以前の事である。藤判官《とうほうがん》の屋敷を、表から襲った偸盗《ちゅうとう》の一群は、中門の右左、車宿りの内外《うちそと》から、思いもかけず射出した矢に、まず肝を破られた。まっさきに進んだ真木島《まきのしま》の十郎が、太腿《ふともも》を箆深《のぶか》く射られて、すべるようにどうと倒れる。それを始めとして、またたく間《ま》に二三人、あるいは顔を破り、あるいは臂《ひじ》を傷つけて、あわただしく後ろを見せた。射手《いて》の数《かず》は、もちろん何人だかわからない。が、染め羽白羽のとがり矢は、中には物々しい鏑《かぶら》の音さえ交えて、またひとしきり飛んで来る。後ろに下がっていた沙金《しゃきん》でさえ、ついには黒い水干《すいかん》の袖《そで》を斜めに、流れ矢に射通された。
「お頭《かしら》にけがをさすな。射ろ。射ろ。味方の矢にも、鏃《やじり》があるぞ。」
交野《かたの》の平六《へいろく》が、斧《おの》の柄《え》をたたいて、こうののしると、「おう」という答えがあって、たちまち盗人の中からも、また矢叫《やたけ》びの声が上がり始める。太刀《たち》の柄《つか》に手をかけて、やはり後ろに下がっていた次郎は、平六のこのことばに、一種の苛責《かしゃく》を感じながら、見ないようにして沙金の顔を横からそっとのぞいて見た。沙金は、この騒ぎのうちにも冷然とたたずみながら、ことさら月の光にそむきいて、弓杖《ゆんづえ》をついたまま、口角の微笑もかくさず、じっと矢の飛びかうのを、ながめている。――すると、平六が、またいら立たしい声を上げて、横あいから、こう叫んだ。
「なぜ十郎を捨てておくのじゃ。おぬしたちは矢玉が恐ろしゅうて、仲間を見殺しにする気かよ。」
太腿《ふともも》を縫われた十郎は、立ちたくも立てないのであろう、太刀《たち》を杖《つえ》にして居ざりながら、ちょうど羽根をぬかれた鴉《からす》のように、矢を避け避け、もがいている。次郎は、それを見ると、異様な戦慄《せんりつ》を覚えて、思わず腰の太刀をぬき払った。が、平六はそれを知ると、流し目にじろりと彼の顔を見て、
「おぬしは、お頭《かしら》に付き添うていればよい。十郎の始末は、小盗人《こぬすびと》でたくさんじゃ。」と、あざけるように言い放った。
次郎は、このことばに皮肉な侮蔑《ぶべつ》を感じて、くちびるをかみながら、鋭く平六の顔を見返した。――すると、ちょうどそのとたんである。十郎を救おうとして、ばらばらと走り寄った、盗人たちの機先を制して、耳をつんざく一声《いっせい》の角《つの》を合図に、粉々として乱れる矢の中を、門の内から耳のとがった、牙《きば》の鋭い、狩犬が六七頭すさまじいうなり声を立てながら、夜目にも白くほこりを巻いて、まっしぐらに衝《つ》いて出た。続いてそのあとから十人十五人、手に手に打ち物を取った侍が、先を争って屋敷の外へ、ひしめきながらあふれて来る。味方ももちろん、見てはいない。斧《おの》をふりかざした平六を先に立てて、太刀や鉾《ほこ》が林のように、きらめきながら並んだ中から、人とも獣《けもの》ともつかない声を、たれとも知らずわっと上げると、始めのひるんだけしきにも似ず一度に備えを立て直して、猛然と
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