な表情が、いつか顔じゅうの筋肉を柔らげた。しかも、饒舌《じょうぜつ》な彼が、そうなったまま、口をきかない。一同は、「死」がついに、この老人を捕えたのを知った。しかし彼の微笑の意味はたれも知っているものがない。
 猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、寝たまま、おもむろに手をのべて、そっと赤ん坊の指に触れた。と、赤ん坊は、針にでも刺されたように、たちまちいたいたしい泣き声を上げる。平六は、彼をしかろうとして、そうしてまた、やめた。老人の顔が――血のけを失った、この酒肥《さかぶと》りの老人の顔が、その時ばかりは、平生とちがった、犯しがたいいかめしさに、かがやいているような気がしたからである。その前には、沙金《しゃきん》でさえ、あたかも何物かを待ち受けるように、息を凝らしながら、養父の顔を、――そうしてまた情人《おとこ》の顔を、目もはなさず見つめている。が、彼はまだ、口を開かない。ただ、彼の顔には、秘密な喜びが、おりから吹きだした明け近い風のように、静かに、ここちよく、あふれて来る。彼は、この時、暗い夜の向こうに、――人間の目のとどかない、遠くの空に、さびしく、冷ややかに明けてゆく、不滅な、黎明《れいめい》を見たのである。
「この子は――この子は、わしの子じゃ。」
 彼は、はっきりこう言って、それから、もう一度赤ん坊の指にふれると、その手が力なく、落ちそうになる。――それを、沙金《しゃきん》が、かたわらからそっとささえた。十余人の盗人たちは、このことばを聞かないように、いずれも唾《つ》をのんで、身動きもしない。と、沙金が顔を上げて、赤子を抱いたまま、立っている交野《かたの》の平六の顔を見て、うなずいた。
「啖《たん》がつまる音じゃ。」
 平六は、たれに言うともなく、つぶやいた。――猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、暗《やみ》におびえて泣く赤子の声の中に、かすかな苦悶《くもん》をつづけながら、消えかかる松明《たいまつ》の火のように、静かに息をひきとったのである。……
「爺《おじ》も、とうとう死んだの。」
「さればさ。阿濃《あこぎ》を手ごめにした主《ぬし》も、これで知れたと言うものじゃ。」
「死骸《しがい》は、あの藪中《やぶなか》へ埋めずばなるまい。」
「鴉《からす》の餌食《えじき》にするのも、気の毒じゃな。」
 盗人たちは、口々にこんな事を、うす寒そうに、話し合った。と、遠くで、か
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